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 昔、カトリックの学校の寄宿舎で過ごしていた頃があった。石造りの建物はひんやりしていて、真昼間でも薄暗かった。その頃、真夜中になると煉獄の霊魂が現れるという噂が囁かれていた。「この世からもう一度、元の世界に戻る時、耐えられないほど苦しいから、呼び出してはいけないんですって。」という言葉と共に。私はいつも亡くなった人たちと一緒に生きていたので、ことさらに呼び出す必要はないのだと、一人でこっそり思っていた。死者はどこへ行くのか、誰にもわからない。もちろんどんな宗教でも、死後の世界のことを教えているが、死なない限り、本当のことはわからない。

 それでも一つだけ確信していることがある。それは死者はその人を思っている限り、心のなかで生き続けているということである。だから私たちは死者を忘れてはいけない。十二月になると神戸の街にルミナリエの明かりが点る。既にもう阪神淡路大震災から長い歳月が流れた。けれど私たちは今でもあの時と同じ気持を抱き続けている。2011年3月11日以来、この思いはこの国すべての人の思いとなった。

  私たちは生きるために生きなければならない。私たちは平静な心を保つ必要がある。正義だけでは砂のように掌からこぼれてゆくものが多くある。人にはその立場によって千差万別の考え方があり、生き方がある。対立している者同士は、ほとんどの場合、相手の立場を理解することが出来ない。かつて私は義母と共に暮らした歳月の方が、実母と共に暮らした日々よりも多かった経験を持っているが、その義母が亡くなってはじめて、一度も理解できなかった彼女の思いがわかるような気がした。生きている間はどうしても向かい合って立っている以外になかったのだが、どうやら私は彼女がこの世にいなくなってはじめて、相手方の立場に立って物事を考えるということが出来たのかもしれない。

 私たちはこの小さな列島に生きるささやかな存在である。大自然は時には偉大な癒しとなり恵みとなるが、その反面、小さな人間の力ではとても太刀打ちできないような脅威となる。その大自然と対峙する時、私たちが対立したところで何も生まれるものはない。私たちは分断する者となってはならない。過ちを認め、過ちを正し、より善き目的に向かって手を携えていかなければならない。ただ非難したり責めたりするだけの行為であってはならない。これまで何をしたかではなく、これから何をするかを考えるべきなのだ。

死者と共に生きる、それを原点として考えると、今現在だけの座標軸ではなく、もっともっと先の、永遠へと続く道程が見えてくる。死者のみがこの世のすべてを俯瞰することが出来る。私たちはその辛く苦しい道程を耐え続けなければならない。そのことを考えると、今はすべての人の英知を一つに結集するべき時なのだ。私たちは己の為だけに生きているのではない。一人では出来ないことも、他者と共に生きることによって出来ることもあるだろう。どんなに歳を重ねようと、一人の人間の短い一生では、生きることも死ぬことも謎のままである。それでもなお、生きている限り生きなければならない。この短い、けれど輝きに満ちた一生において、死者を心に刻み、彼らと共に生き、彼らの視点で永遠に繋がる長い道程を見ることこそ、私たちの唯一の指標となるだろう。

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