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第一章 『大乗起信論』の哲学
『大乗起信論』は古来、作者は馬鳴、訳者は真諦であるとする伝承が一般に伝えられている。馬鳴(Asvaghosaアシュヴァゴーシャ)は紀元後一〇〇~一五〇年頃にインド仏教が生み出した最大の仏教詩人であるが、実際には馬鳴の名に仮託し、中国において撰述されたものであろうと言われている。真偽はともあれ、この書は大乗仏教の理論と実践の両面において、それ以前の経論の諸説を多角的にとり入れ、「大乗」そのものを総論的に簡潔に描き出そうとしたものであり、後世の仏教思想に多大な影響を与え続けた。
井筒俊彦はこの『起信論』を宗教書としてではなく、「仏教哲学の著作として読みなおし、解体して、それの提出する哲学的問題を分析し、かつそこに含まれている哲学思想的可能性を主題的に追って」、「それの意識形而上学の構造を、新しい見地から構築」しようと試みている。したがって当然のことながら宗教書にありがちな思い入れや押しつけがましさが全くない。そして又、そのように「新しく読みなおし」た『起信論』を、彼が過去二十年に亙って試み続けて来た「東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握」のためのささやかな一歩であると位置づけている。
翻って私自身に戻って言うならば、十年前から今に至るまで、なぜこれほど「密教」に魅かれ続けてきたのかということを解く一つの鍵を、この『起信論』を読むことによって見出し得たような気がする。
『起信論』は「摩訶衍」(Mahayana「大乗」の音写語)を二種の観点から捉えようとする。その一つは「法」(大乗の教説によって明らかにされる真実、及びその真実を保持するもの)であり、もう一つは「義」である。ここでいう「法」とは「衆生心」であり、(論中、「衆生心」を「一心」あるいはたんに「心」ともいう。)「義」とは「衆生心」が「大乗」と言われる理由をさし、「体・相・用」の三種がある。さらに「衆生心」は「真如相」と「生滅因縁相」との両面を持つ。これらを「心真如門」「心生滅門」の二種の観点から考察してゆこうとする。
〈真如〉とはサンスクリット語のcitta-tathataで「ものさながら」「あるがまま」を意味する語である。しかし「あるがまま」と言っても現実のありかたそのままという意味ではない。「絶対」「真(実在)」「道」「空」「無」あるいは「一者」。それらと同じように『起信論』は〈真如〉という「仮名」を選び取る。しかし一つ一つの言語は、その言語を選び取った時から、それ以外の言語とは微妙に異なってくる。それゆえに 『起信論』は〈真如〉はあくまでも「仮名」であると繰り返し主張する。
それは「絶対無分節」であり、「無辺際、無区分、無差別な純粋空間の、ただ一面の皓蕩たる拡がり。」あるいは「渾沌」「上梵」。しかしそれらをそのようなものとして、「そのまま、把握することにおいては、言語は完全に無能無力である。」
まるで詩と同じではないか、と私は思う。「いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って〈コトバ以前〉を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと――そこにこそ形而上学の本旨が存する。そして『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとする」ものであると井筒俊彦は位置づけている。私が詩を思い浮かべたように、空海は「真言」を想起したのではないかとふと思ったりするのだが、今はそのことには触れない。
『起信論』の顕著な特徴として、思想の空間的構造化と、思惟の双面的・背反的、二岐分離的展開があげられる。前述したように〈真如〉は、「第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分別・不可分の全一態であって、本源的には絶対の〈無〉であり〈空〉(非顕現)であるが、」「また逆に、〈真如〉以外には、世に一物も存在しない。〈真如〉は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での〈真如〉でもあるのである。」「いわゆる〈無明〉(=妄念)的事態も、存在論的には〈真如〉そのものにほかならない。」
心真如者、即是一法界、大総相、法門体。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別、
若離心念則無一切境界之相。是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟
平等、無有変異、不可破壊、唯是一心。故名真如。
また〈真如〉は「言語を超越し、一切の有意味的分節を拒否する」「離言」の面と、「言語に依拠し、無限の意味分節を許容する」「依言」の面とに二岐分開する。井筒俊彦はこれをプロティノスの説く「一者」の形而上学と比較し、〈真如〉は「存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意識の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもある。」と述べている。
さてここで序章で述べた「識」に関する言葉を思い起こして頂きたい。『起信論』では「唯是一心、故名真如」と書かれているが、井筒俊彦はこの「心」を「意識」という語に移して論を進めている。ただしここでいう「意識」は、個々人の個別的な心理機構ではなく、超個人的・形而上学的意識一般、即ち(たとえばユング的集団無意識に見られるような)超個人的共同意識、または共通意識を想定して、それの主体を汎時空的規模に拡大し、全人類(=「一切衆生」)にまで拡げて考えたものである。 「衆生心」はこのような「超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がり」、「一切衆生包摂的心」、即ち「あらゆる有情、または、あらゆる存在者を一つも余さず包摂するほどの限りない広■をもつ覚知の全一的拡がりとしての意識」(=「心」)であるとともに、もう一方ではごく普通の日常的意識でもあり、この両者は「自己矛盾的関係で本体的に結ばれている」とされる。
『起信論』では「心生滅」に言及するに至って〈阿梨耶識〉が登場する。
心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識。
しかしここで言われる〈阿梨耶識〉は、唯識哲学の説くそれとは異なっている。唯識哲学では〈阿梨耶識〉は千態万様に変転する一切の現象的存在者の発起する源泉となる深層意識であるのに対し、『起信論』では一面においては常に揺れ動く生滅心であるが、それと同時に他面、不生不滅、永遠不動の絶対的「真心」である。
言い換えれば唯識の〈阿梨耶識〉は「妄識」のみであるのに対し、『起信論』のそれは真(「心真如」)妄(「心生滅」)和合識なのである。井筒俊彦は次のように述べている。
『起信論』的「アラヤ識」は、何よりも先ず、「真 如」の非現象態と現象態(=形而上的境位と形而下的 境位)とのあいだにあって、両者を繋ぐ中間帯として、 空間形象的に、構想される。「真如」が非現象的・「 無」的次元から、いままさに現象的・「有」的次元に 転換し、それ本来の寥廓たる「無」(=「本来無一物」 )の境位を離れて、これから百花繚乱たる経験的事物 事象(=意味分節体、存在分節体)の形に乱れ散ろう とする境位、それが『起信論』の説く「アラヤ識」だ。 非現象態(=「無」の境位)から現象態(=「有」の 境位)に展開し、また逆に現象的「有」から本源の非 現象的「無」に還帰しようとする「真如」は、必ずこ の中間地帯を通過しなければならぬ。〈中略〉
従ってまた、我々が存在の現象態(=いわゆる経験 的世界)を、どう価値づけるか(=正とするか負とす るか)によって、「アラヤ識」の価値符号が正反対に なる。現象的事物の世界を、「真如」の本然性からの 逸脱、すなわち、全て我々の「妄念」の生み出した妄 象と見るなら、それの始点となった「アラヤ識」は負。 「真如」の自己分節の姿、と見るなら、「アラヤ識」 は正。
〈阿梨耶識〉を境とし、形而上を「心真如」、形而下を「心生滅」という二重構造を持つ「一心」が「衆生心」なのであり、その本体は現象態における「妄心」の乱動のさなかにあっても源初の清浄性を失うことはない。この本体を『起信論』は「自性清浄心」と名づけている。そしてこの純粋な〈真如〉それ自体を、〈真如〉の本体の意味を持つ「体」の字に、優越しているという意味を持つ「大」の字を加えて「体大」と名づける。また現象態における〈真如〉が様々な属性を帯びて現われることを、本質的属性の意味を持つ「相」の字に「大」を加え、「相大」と呼び、さらに同じく現象態において、無量無辺の「功徳」(=存在現出の可能力)を帯びて存立する〈真如〉を〈如来蔵〉と名づけ、無限の働きを示すこの〈真如〉を「用大」と呼ぶ。「用」という字は、物の属性が外面に発動して示す根源的作用、あるいは機能を意味している。
この現象世界は本質的に虚妄でありながら、〈如来蔵〉的観点から見ると、〈真如〉は一切の存在者の根底に伏在し、「一切事物の窮極原因として、それらの中に本体的に存立している」のである。全ては「真」であって虚妄ではない。また「妄心」によって〈真如〉をあるがままに把えることができないから「空」であると言うのであって、もし「妄心」から離れるならば「空」そのものも無い。
所言空者、従本已来、一切染相応故。謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。当知、
真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、
非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故。説為空。
若離妄心、実無可空故。
「〈心真如〉の本性そのものは常恒不変、不生不滅の「真心」であり、一点の虚妄性も無いが、そのかわり「真心」特有の玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。そしてそれらの「浄法」が、〈心真如〉の自己分節という形で、限りない現象的存在者として顕現してくる。このような〈心真如〉の側面を『起信論』では「不空」と名づけている。
所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。
以離念境界唯証相応故。
「限りない豊饒、存在充実の極。この側面における〈心真如〉は、一切の現象的事物事象を、あますところなく、形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものが、そこにある。〈中略〉全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動。」
井筒俊彦の『起信論』哲学はさらにここから、「実存意識機能の内的メカニズム」と題して、「覚」と「不覚」、「始覚」と「本覚」、「熏習」と、「アラヤ識」の機能を解明してゆくのだが、この小論の目的は、あくまでも空海の思想における「六大」と「識」についての考察に主眼を置くつもりであるので、これ以上の深入りはしない。もし興味のある方は個々にお読み頂きたいと思う。その際、井筒俊彦の他の著書も是非にとお勧めしたい。(『東洋哲学』『意識と本質』など)
最後になぜこのような寄り道をしたのかを述べておかねばならない。これまでさまざまなエッセイのなかで、幾度か書いてきたことではあるが、私はかねがね、ひとは皆、本性として、この世のあらゆるものを超えた存在を覚知できるものであると考えてきた。ひとつにはこの宇宙のすべてを見ることによって、そしてもうひとつは自己の内部に沈潜することによって。しかし不幸なことに現代では、このいずれもが歪められてしまっていて、それはかなり困難なことになってしまった。『大乗起信論』、ことに井筒『起信論』は、このような私の意識上、無意識下のどちらの思いをも大いに充たしてくれるものであった。それとともに、先にも述べたように、これらを読むことによって、なぜ「密教」と「空海」そのひとにこれほどまでに魅かれ続けてきたか、ということがほんの少し解ったような気がしたのである。
それはまず〈阿梨耶識〉を「妄念」だけのものではなく〈真如〉をも含むものとして捉えていることであり、さらにこの現象界においてすら〈如来蔵〉として〈真如〉が存在するということである。井筒俊彦の言葉で言うならば、「〈真如〉の自己分節の姿、と見るなら、〈アラヤ識〉は正。」〈阿梨耶識〉も現象界もまさに「正」として見たいというのが私の考え方であり、生き方であったような気がする。それは私自身が「正しい」人間であるということでは決してない。むしろそれとは逆に、どんな悪でもなし得るのが人間存在であるし、私もまた例外ではない。それでもなお、「正」として見たい私自身が確かに存在するのだ。それは正邪の「正」ではなく、「肯定」それも「全肯定」という意味で。
ついでに告白するならば、私が(形而上の世界で)空海に出会った時、現実(形而下)の世界では長男がちょうど十四才から十五才にかけての時で、連日四十度近い熱を出し、ほとんど中学校を欠席したあげく、結局高校進学をあきらめ、一年間どこにも属さずに過ごした時期だった。今思えば「否定」よりは「肯定」に魅かれるのは当然だったような気がする。ある意味で全く「自由」であったその時期、親子で話し合った最初のことは、「バスに乗り遅れても死なないね」ということだった。社会一般から外れることへの恐怖は、いったん外れてしまえばいかほどのことでもないということを、その言葉は端的に表している。後になって彼はその頃見た夕焼けを、「あんなきれいな夕焼けを見たのは本当に小さい頃から久しぶりだった」と語っている。
『起信論』は〈無明〉のことを「忽然として妄念の生起すること」(「忽念念起、名為無明」)と述べているが、「繚乱と花ひらく」無明の世界(現象世界)の何と美しいことか。しかしそれはやはり〈真如〉ゆえなのであろう。そして空海の、即ち密教の世界は、明らかにすべてを「肯定」の立場に立って見るものであり、「大日如来」こそが、井筒『起信論』の言う「現象界の形而上的根基、即ち一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての〈心真如〉そのものであろう。
『起信論』的に言うならば、〈如来蔵〉こそが無限に豊饒な存在生起の源泉。そしてその〈如来蔵〉に依る〈阿梨耶識〉は、宇宙の根源を内部に宿し、すべてが未分化のまま渾沌と滾る処。すべてがそこから生まれ、ある一点を境として絢爛と咲き乱れ、溢れ、充ち充ちる処。すべてのものが顕ち現れ、すべてのいのちが生起し、風が吹き起こる処。
すべてが無であり、また有であり、ひとつひとつに分化しつつ、ただひとつの分かち得ない大いなるもの、〈真如〉。その大いなるものの沈黙から、すべての言葉の息吹は生まれる。