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第五章 出家得度と遣唐使時代
『定本 弘法大師全集 首巻』の「弘法大師略年譜」によると、延暦十六(七九七)年十二月一日『聾瞽指帰』を著してから、延暦二十三(八〇四)年四月七日に出家得度するまでの七年間は全くの空白になっている。空海の経歴に、この空白の時は幾度か訪れる。しかしひとの人生の中で本当の空白というのはありえない。そこには二つの意味がある。一つは歴史の表舞台に登場する程の特筆すべき出来事がないということ、もう一つは敢えて何かの為に身を潜めていたということである。大学寮を中途退学し山野を駆け廻っていた時は確かに後者であったと言える。しかしその後の七年間は、基本的にはごく普通の生活を送っていたような気がしてならない。前章で「空海は仏教こそは最上であるということを、この二書(『聾瞽指帰』と『三教指帰』)で宣言し、最上であるがゆえに、そのために生きる以外に空海の生きる術はなかった。」と述べた。その模索の為に彼がしたことは何かと考える時、彼の生真面目な表情とひたむきな姿が浮かんでくる。
自分の出来ることは何でもしようと彼はまず思ったに違いない。彼の脳裡には次々と、これまで出会った、師と仰ぐ人達の面影が走馬燈のように巡る。考え尽した後、彼は決心したに違いない。「そうだ、奈良に帰ろう。途中で放り出したすべての事を学び直すのだ。」確かに彼は世俗の学問から逃避した。しかし同時にあれほど大切にしていた、仏教を学ぶことからも遠ざかってしまったのだ。それを取り戻さねばならない。
こうして彼は再び市井の人となった。しかしながらかつてのようにどこかに属すことはなかった。それが七年間、一切の記録から彼が消えた理由なのではないだろうか。同時にいずれの身分にも属さず、仕事も地位もなく、学生ですらなかったからこそ、定まった枠内の行動のみならず、心の赴くままに学び、時にはまた山野を経廻ったに違いない。
奈良に戻った真魚(空海)は当然ながらまず佐伯院に行ったであろう。しかし果たしてそこに投宿したかどうかはわからない。既に佐伯今毛人は七九〇年に没していた。空海が大学を辞め、山林修業をしたといわれる前年の事であった。以前にも述べたが、佐伯真守・今毛人兄弟は宝亀七年に起工し、延暦四、五年に氏寺として佐伯院(香積寺)を建立。しかし都が長岡京に移ってからは衰退の一途を辿っていった。さらに昌泰三(九〇〇)年には東大寺別当の道義によって東大寺境内の東南部に移された。これが東大寺東南院の起原であるという。
また佐伯院の近くの元興寺や、真魚(空海)がかつて学んだ大安寺は、再び彼の学問所となったであろうと推察される。更に山林での修業は、弛まず続けられたに違いない。葛城山、吉野山、大峯山、周辺の山々は、彼の庭のようなものであっただろう。そのような市井の一修行者として、七年の歳月を経た延暦二十三(八〇四)年の四月、ようやく彼の名が歴史の中に二度現れる。それは僅かな言葉に過ぎないが、彼がいよいよその為にのみ生きようと決意したことを証しているのである。すなわち延暦二十三(八〇四)年四月七日の「出家得度す。」〔続日本後紀四〕、同年四月九日東大寺戒壇院にて「具足戒を受く。」〔寛平御伝〕と書かれている二度の機会である。(いずれも「定本弘法大師全集』首巻の年表による。」
彼の得度の歳は十九歳から二十二歳まで諸説があって定かではない。またその場所も一般的には和泉槇尾山寺にて大安寺の僧、勤操によるものとされている。しかしながらこの年表通り出家得度と具足戒を受けた年が同年とすると、果たしてたった二日でこのように距離の離れた二つの寺院を行き来することは不自然なのではないか、という疑問が脳裡から離れなかった。
ある年の夏、私は奈良の萬燈会を訪れた。東大寺の仁王門の前に並び、観相窓からこちらを見ていらっしゃる大仏様を見ながら時を待っていた。やがて開門になり大仏殿にお参りし、燈籠の灯りを映す池のほとりを歩き、そこからさらに二月堂へ、一回りして春日大社の方へ抜けて、奈良公園をよぎり、更に浮御堂へと歩を移した。まだ間に合うならついでに高円山の大文字も見たいと思って、更に奈良ホテルの少し手前まで歩くと、もう行事も終わり、人影もまばらになっていた。宴のあとの静けさのなかで、高円山の方角を見ようと広場の真ん中にいくと、暗闇のなかにぼんやりと読めるほどに、白い看板が立っていた。そこには予期せぬ文が書いてあって、私は不意を突かれたようにその前で立ち止まった。それは高円山の大文字について書かれていたのだが、高円山の麓にはこれまで知っていた白豪寺だけでなく、「岩淵寺」があったという。白豪寺もまた、かつては岩淵寺の一院であったという説もあるという。
それ以来ずっと、私はこの「岩淵寺」について調べ続けた。
白豪寺の由来には、「当時の草創については、天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするものなど諸説あるが定かではない。」と書かれている。
また現在の新薬師寺に安置されている「十二神将」について書かれた本の中で、写真家小川光三が「高円の野辺」という一文を掲載しているが、その中にも「現在高円山の西南麓には、奈良の共同墓地がありますが、その東側には岩淵寺という古い寺院跡。〈中略〉もっと古いものでは『今昔物語』に、吉備真備が岩淵寺で女の霊に出会った話などがあります。〈中略〉神々の座す春日の山々と、人々が居住した平城京の間に展がる春日野は、神仏の世界と人間の世界を結ぶ接点で、そうしたことから、ここに大きな寺や神社が建立されました。」と書かれている。この「十二神将」は元は岩淵寺の所有で、後に新薬師寺に移されたという説もあるという。
奈良のバス路線図を見ると、高畑町から東、白豪寺から三番目に、「岩淵寺口」というバス停がある。昨年の春、海外からの友人を案内して五色椿を見るために白豪寺に行った折に、少し足を延ばして、この「岩淵寺」跡を車で訪れた。実は思っていたよりも遠く、しかも川沿いにあるのだとばかり思っていたので、山へ向かってかなり登っていく道の途中で、間違えたのではないかと不安になり、諦めかけた頃にようやく辿り着いた。
バス停のすぐ傍に十段ほどの石段があり、登った所に石の鳥居が立っていた。以前どこかで見た写真では石段は曲がっていて、鳥居も木で出来ていた。今眼前にある石段と石の鳥居は、新しく造り替えられたものであった。
![2012033116030001[1].JPG](https://static.wixstatic.com/media/0a4f82_be1d453bac1443d7826a44ea30d5c1a4~mv2.jpg/v1/fill/w_213,h_380,al_c,lg_1,q_80,enc_avif,quality_auto/2012033116030001%5B1%5D_JPG.jpg)
階段の少し下に「岩淵明神」と彫られた丸い石の石碑があった。さらにもう一つ、壊れてその横に置かれた石碑はおそらくは「岩淵寺」の文字が彫られていたのではないかと推測されるが、石の面は雨風にさらされ、何も読み取ることが出来なくなっていた。

鳥居を潜ってさらに上に登ろうとしたが、そこから先は金網が張られていて、立ち入り禁止になっていた。鳥居の脇には金網がなかったので、そこから山に登れないかと試みたが、山道もなく険しい勾配の山肌で、残念ながら諦めざるを得なかった。横から見ると古い石段が見えている。確かにここに「岩淵寺」があった証しのようにも思えた。

以前、吉野山の向かいに位置する龍門寺を訪れた時も思ったことだが、往時隆盛を極めた寺院がこれほどまでに跡形もなく消えてしまうことがあるのかという思いが沸々と湧いてきた。この二つの寺院に共通することは、どちらも唐から渡ってきた僧によって創建されたことであるが、果たしてそれが何らかの意味があるのだろうか。あるいはどちらも公的な寺院ではなく、私的な色彩の強い寺院だったからか。しかも不思議なことに、ここに寺院があったという伝承は存在するものの、詳しい文献は全く残っていないのである。もちろん歴史のなかでは、さまざまな要因があるに違いない。たとえ歴史の波を辛うじて潜って生き延びてきたとしても、ほとんどの寺院が明治の廃仏毀釈によって破壊されている。そう思いながらその地を離れて白豪寺へと向かった。
白豪寺は若草山、春日山に続いて南に連なる高円山の麓にあり、天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられる。当時の草創については、天智天皇の御願によるものと言われるが、同時に先に述べた勤操の岩淵寺の一院であったも言われている。もうすっかり咲き終わっているとばかり思っていたのだが、山門を潜り境内に入ると、五色椿が盛りだった。

境内の東南の角に木札が立っていて、その方向の遥か彼方に志貴皇子の御陵が存ると書かれている。その方角は今しがた訪れた岩淵寺の入り口のあった所でもあった。かつて東大寺、春日大社と並び立つほどの広大な寺領を持った岩淵寺は、今は跡形もなく消え果てていた。
果たして空海は奈良に戻ってすぐに出家得度したのだろうか。これまでの空海の生き方を見ると、なぜかそうは思えない。また一説としてこれまで言われてきた槇尾山の岩淵寺で出家得度したというのも、腑に落ちないところがある。空海は不思議なほど緻密で論理的なところがあり、事を為す時には自ら必要だと思い、納得しなければ実際に行動しない。
彼は確かに吉野山や龍門岳、葛城山、さらに槇尾山でも修行に励んだに違いない。また同時に東大寺、大安寺,元興寺などで、若き日に学んだ師の下で、再び万巻の経を学んだに違いない。そしてこの日々に、彼はその一生を変える一つの経に出会うのである。
彼は久米寺でその経、「大日経」を発見したと伝えられている。何年か前、西吉野に午前中に行かなければならない用事があって、その前日に橿原に泊まり、久米寺を訪れた雪柳が咲く広い境内で、夕暮れが近づくわずかな時を過ごした。

それにしても空海と東大寺は不思議な深い縁で結ばれている。彼の最大の庇護者であった佐伯今毛人は東大寺建立の司であったし、僧侶として生きる最初の一歩を記したのはこの戒壇院であり、さらに唐から帰った後、大仏殿前に真言院(潅頂道場)を建立することにもなるのである。
一昨年、奈良国立博物館で行われた「古事記の歩んできた道」という展覧会で硝子ケース内の文献をを見ていた時、突然「造東大寺司長官佐伯宿禰今毛人」の文字が飛び込んできた。もう一度見直すとそれは「造東大寺」という東大寺から興福寺へ引き渡す品の目録で、天平勝宝七歳(七五五年)に書かれた紙本墨書であった。几帳面な整然とした文字の羅列が続いた後、末尾にこれまでの文字とは別の少し飛び跳ねたような「今毛人」の筆跡があった。これまで朧で顔も浮かばないひとりの人間の存在が、俄かに眼前に浮かび上がってきた。千二百年余を経てなお、ひとりの人間が確かにこの世に生きていたということを実感することが出来る墨書の凄さを改めて思い知った一瞬でもあった。
このような事務的な文書でさえ、このような驚きをもたらすとしたら、空海が久米寺の東塔の下で『大日経』を発見した時の衝撃はいかばかりであったことか。
二十年ほど前、私が最初に密教に出会った頃、密教が知りたいと思い、根本経典である『大日経』と『大日経疏』をひたすら読んでいたことがあった。以下、その一端を披露する。
世尊、譬如虚空界離一切分別、無分別無無分別。如是一切智智離一切分別。、無分別無無分別。世尊、譬如大地一切衆生依、如是一切智智、天人阿修羅依。世尊、譬如火界焼一切薪無厭足、
如是一切智智、焼一切無智薪無厭足。世尊、譬如風界除一切塵、如是一切智智、除去一切諸煩悩塵、世尊、喩如水界一切衆生依之歓楽、如是一切智智、爲諸天世人利楽。世尊、如是智慧、以何爲因、云何爲根。云何究竟。
世尊よ、譬(たと)えば虚空界(こくうかい)は一切の分別を離れて、分別もなく無分別もなし。
世尊よ、譬えば大地は一切の衆生の依(え)たるが如く、かくの如く、一切智智は天・人・阿修羅の依たり。
世尊よ、譬えば火界は一切の薪を焼くに厭足(えんそく)あることなきが如く、かくの如く一切智智も、一切無智の薪を焼くに厭足なし。
世尊よ、譬えば風界は一切の塵を除くが如く、かくの如く一切智智も、一切の諸(もろもろ)の煩悩の塵を除去す。
世尊よ、喩えば水界は、一切衆生はこれによって歓楽するが如く、かくの如く一切智智も、諸天・世人の利楽(りらく)をなす。
世尊よ、かくの如くの智慧は、何を以てか因(いん)となし、云何(いかん)が根(こん)とし、云何が究竟(くきょう)とするや、と。
(尊き師よ。喩えば大空の領域(宇宙空間)はすべての思慮を離れて、思慮もなく無思慮もない。そのように、すべての智慧のなかの智慧もまたすべての思慮を離れて、思慮もなく無思慮もない。
尊き師よ。喩えば大地はすべての人びとの依りどころであるように、そのように、すべての智慧のなかの智慧は、神〔天〕・人間・阿修羅の依りどころである。
尊き師よ。喩えば火の領域は、すべての薪を焼いてもなお厭(あ)き足りることがないように、そのように、すべて智慧のなかの智慧もまた、すべての無智という薪を焼いてもなお厭き足りることがない。
尊き師よ。喩えば風の領域は、すべての塵を吹き払うように、そのように、すべての智慧のなかの智慧もまた、すべてのさまざまな領域の塵を除き去る。
尊き師よ。喩えば水の領域は、すべての人びとがこれによって歓び楽しむように、そのように、すべての智慧のなかの智慧は、諸天や世間の人を利益(りやく)し安楽ならしめる。
尊き師よ。このような智慧は、何を原因とし、何が根であり、何が究極的なものであるかと。)
金剛手言、如是世尊、願楽欲聞。仏言菩提心爲因、大悲爲根、方便爲究竟。
金剛手の言わく、かくの如し、世尊よ、願わくは聞かんと楽欲(ねが)う、と。
仏の言わく、菩提心を因(いん)とし、大悲(だいひ)を根(こん)とし、方便を究竟(くきょう)とす、と。
(金剛杵を手にする者は、お答えして申しあげた。
「その通りであります。尊き師よ。どうかお聞かせ願います。」と。
仏がおっしゃるのには、
「さとりを求める心〔菩提心〕を原因をとし、大いなる憐れみ〔大悲〕を根とし、手伊達〔方便〕を究極的なものとする のである」と。)
秘密主、諸法無相、謂虚空相。
秘密主よ、諸法は無相なり、いわく虚空相なり。
(秘密主よ。さまざまな存在するところのものはかたちなきものであって、(あたかも、それは)大空のかたちなき(かたち)と同じである」。)
心不在内不在外、及両中間神不可得。
心は内に在(あ)らず、外(げ)に在らず、及び両中間(ちゅうげん)にも心は不可得(ふかとく)なり。
(心というものはうち(なる眼・耳・鼻・舌・身・意)にもなく、外(なる色(式)・声(しょう)・香・味・触(そく)・法)にもなく、また内外の中間にも心は認徳することができないものである。)
秘密主、若真言門修菩薩行諸菩薩、深修観察十縁生句、当於真言行通達作証。云何為十。謂如幻.陽焔、夢、影、乾闥婆城、響、水月、浮泡、虚空華、旋火輪。
秘密主よ、もし真言門に菩薩行を修する諸(もろもろ)の菩薩 は深修(じんしゅ)して十縁生句(じゅうえんしょうく)を観察(かんさつ)し、まさに真言行(しんごんぎょう)に於いて通達(つうだつ)し作証(さくしょう)すべし。云何(いかん)が十とする。いわく、幻(げん)・陽焔(ようえん)・夢・影(よう)・乾闥婆城(げんだつばじょう)・響(こう)・水月(すいがち)・浮泡(ふほう)・虚空華(こくうげ)・旋火輪(旋火輪)の如し。
(秘密主よ。もしも真言の部門において菩薩の実践行を修めるさまざまな菩薩は、深く修行して、十縁生句を観察し、まさしく真言の実践行において(十縁生句に)よく達し、真実のものとして体得するがよい。十とはどのようなものであるかというと、幻(まぼろし)と陽焔(かげろう)と夢(ゆめ)と影(かげ)と乾闥婆城(げんだつばじょう)と響(ひび)きと水月と浮泡と虚空華(こくうげ)と旋火輪(せんかりん)とのようである。)
この時、同時に私は『大日経疏』をも読み、一層『大日経』の
理解を深めたのであるが、残念ながら空海が『大日経』を発見した時には『大日経疏』は未だ我が国には存在しなかった。
『大日経』はこれまで我が国に在ったいずれの〈経〉とも違っていた。一言でいえば〈経〉らしくない。道徳の色も倫理の響きもない。さらに「秘密主よ」と呼びかけてはいるものの、仏の名を呼ぶ言葉もない。それは仏に対する呼びかけではなく、あたかも曼陀羅そのものであった。
真魚、空海はずっと求めていた。この世の不思議、この世で生きていることの不可思議。自然と自然を超えたものへの驚嘆と謎、宇宙の謎。見えるものと見えないもの、五感のすべてを使い、それでもなお取り残されたひとの意識の奥底までを俯瞰するもの、そしてそれらを目の当たりに提示するものを。
具象で表せないものをあらわすには抽象しかない。それがこの経が経らしくない所以である。しかし空海はおそらく確信を持てなかったに違いない。この曼陀羅の意味を、確かな言葉で聞きたい、知りたい。この抽象の表現が如何に的確で真実に到達しているかということを学び、信じたい。「秘密主」である大毘盧遮那如来を。
幸い、この時代には遣唐使という制度があった。彼はどんなことをしても遣唐使として唐に渡ることを決意したに違いない。
遣唐使の回数については幾通りもの諸説があるが、舒明二(六三〇)年から十五回の派遣があったと考えられている。当初は遣隋使以来常用されていた北路、即ち壱岐、対馬を経て朝鮮半島の南岸に達し、そこからは半島の西岸に沿って北上する航路であり、最終的には朝鮮半島西岸の中央に突き出た甕津(ようしん)半島の先端部から黄海を横断して、中国山東半島の登州(とうしゅう)、萊州(らいしゅう)などに着き、使節団はそこから陸路、洛陽、長安を目指すというルートであった。
ところが百済が滅び、高句麗が滅んで、朝鮮半島が新羅に統一されるとともに、第七回以後は直接唐に赴く大規模な使節団が企画されるようになった。それによって航路も朝鮮半島を離れて南路をとるようになった。空海が遣唐使として参加するのはこれよりさらに回数を重ねた第十四回の企画の時であった。
時の桓武天皇が平城京から長岡京を経て、平安京に遷都してから八年後、延暦二十(八〇一)年八月十日、遣唐大使藤原朝臣門野麻呂(かどのまろ)を筆頭とする人事が発表された。しかし実際に本格的に始動したのは翌々年の延暦二十二(八〇三)年のことであった。一行は四月十四日(五月十二日)難波津で船に乗り込み十六日(十四日)に出発したのだが、出版後わずか五日目、四月二十一日(五月十九日)に瀬戸内海で暴風疾風に遭い破船し、数多くの沈溺者を出す羽目になった。大使は五月二十二(六月十八日)日には都に帰って節刀を奉還している。
空海にとってはこのことが幸いした。最初の出航には参加していなかったものの、翌延暦二十三年五月十二日(八〇四年六月二十六日)難波津を再出航する際には、何とか遣唐使として滑り込んだのである。
船は難波津から室津、鞆津、長門津を経て那之津に至る。そこから肥前海岸、平戸島、さらに五島列島に至る。実は私はこれまで不勉強で、五島列島からすぐに思い浮かぶのは隠れキリシタンで、遣唐使については全く念頭になかった。空海の跡を辿り、遣唐使について幾冊かの書物を読むようになって初めて、五島列島が遣唐船の最後の寄港地であることを知ったのである。それからあらためて空海の伝記にかかわる書物を探してみた。
『御遺告』には「以去延暦二十三年五月十二日入唐、爲初學習、天應慰懃、載勅渡海、」とのみ書かれているのだが、『日本後紀』には「延暦廿四年6月、乙巳、大使従四位上藤原朝臣上葛野麻呂上表言、臣葛野麻呂等去年七月六日、發従肥前國松浦郡田浦、四船入海、七日戌剋第三第四両線火信不應、出入死生之間、■曳波濤之上、都■四箇日、」と、さらに『高野大師御廣傳』にも「延暦廿三年甲申七月六日、發従肥前國松浦郡田浦四船解䌫、」と書かれている。
遣唐使に関わる何冊かの書籍を読んだなかで、上田雄・著『遣唐使全航海』に第十二回遣唐使派遣の際の記述がある。
『御遺告』には「以去延暦二十三年五月十二日入唐、爲初學習、天應慰懃、載勅渡海、」とのみ書かれているのだが、『日本後紀』には「延暦廿四年6月、乙巳、大使従四位上藤原朝臣上葛野麻呂上表言、臣葛野麻呂等去年七月六日、發従肥前國松浦郡田浦、四船入海、七日戌剋第三第四両線火信不應、出入死生之間、■曳波濤之上、都■四箇日、」と、さらに『高野大師御廣傳』にも「延暦廿三年甲申七月六日、發従肥前國松浦郡田浦四船解䌫、」と書かれている。
遣唐使に関わる何冊かの書籍を読んだなかで、上田雄・著『遣唐使全航海』に第十二回遣唐使派遣の際の記述がある。
宝亀七年(778)春、遣唐使一行は大宰府に向かい、筑紫から発して五島まで行って出帆の機会をうかがっていたはずであるが、閏八月六日(9月26日)になって、次のように今年の渡海を諦め、来年を待って渡海したいと奏上してきた。
「是より先、遣唐使の船、肥前国松浦郡の合蚕田浦(あいこだのうら)に到りて、月を積(かさ)ね日を余(あま)して信風を得ず。既に秋節に入りて弥水候(いよいよすいこう)に違(たが)えり。乃(より)て引きて博多大津に還り、奏上して曰(もう)さく、今既に秋節に入りて逆風日(ひび)に扇(ふ)けり。臣等望むらくは来年の夏月を待ちて庶(ねが)わくば渡海することを得んことを」
この「合蚕田浦」には註が付いていて、「五島列島のいずれかの港であることは確かであるが、中通島(なかどおりま)の青方(青方)港とする説や福江島の岐宿町(きしくちょう)川原浦(魚津ケ崎ぎょうがさき)、久賀島(ひさかじま)の田ノ浦とする説など諸説あって、決定はできない。」と記されている。
同様に東野治之・著『遣唐使船』には「使人たちが国内で最後に碇泊するのは、値嘉嶋(ちかのしま=五島列島)である(『肥前国風土記』松浦郡)。佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らは、前年夏、いったんこの五島列島の合蚕田(相子田)まで来ながら、良風が吹かないといって引き返した。これはいまの中通島(なかどおりじま)にある相河(あいこ)・青方(あおかた)に当たり、、船二十隻の泊まれる良港だった。『肥前国風土記』によると、値嘉嶋には遣唐使船の碇泊する港が二つあった。一つが相子田、もう一つが川原で、川原には十隻余りの船が碇泊できたという。現在中通島(上五島町)に相河の地名が残るが、相子田は青方浦、今里浦(いまざとうら)を含む一帯をいったのだろう。青方は相子田の地名が転訛したものとされる。この湾部は前に二つの小島を控えた天然の要塞である。今里浦の奥には、古い護岸の一部が、「お船様」として残る。川原も福江島(ふくえじま)岐宿町白石浦の奥に地名が残るが、もとは魚津ケ崎(ぎょうがさき)あたりまでを含む一帯をさしたとみてよい。現在遣唐使寄泊地の碑がある魚津ケ崎に立つと、複雑な岬に抱かれたこの港の地の利がよくわかる。合蚕田の港を後にした遣唐使船は、美禰良久(みねらく)
(旻楽、旻美楽とも)の崎(さき)をめざし、そこから東シナ海を横断する。
美禰良久の崎は、同じ五島列島福江島の西北端、三井楽(みいらく)の地である。西北に突き出したこの岬は、風の良否をうかがって渡海を決断するには恰好の場所だったろう。発掘によって関連の古代遺構が今後発見される可能性もあろう。古代にはこの五島列島は、文字どおり日本の西のはてと考えられていた。」
それにしてもこれらの書を見ると因縁めいたものを感じさるを得ない。この第十二回の遣唐大使に任じられたのは、空海の一族の長であり、彼が初めて平城京に来た折に寄宿したと思われる佐伯今毛人その人であった。
しかし翌宝亀八年に再度出発する際、今毛人は「病に輿(こし)して途に進む。摂津職(せっつしき)に到りて日を積めども癒えず』という状態になり、朝廷では副使小野石根(いわね)に勅して、「節を持して先(ま)ず発(た)ち、大使の事を行え、順風を得ば相待つべからず」と指令し、結局「佐伯今毛人の不参を認めながら、小野石根を大使に昇格させず、しかし実際には大使の権限を与えて、大使空席状態のままの使節団を派遣する」ということになり、「肥前国松浦郡の橘浦(たちばなのうら)(五島列島福江島の玉之浦)を出帆して唐へ向かった。
それから二十七年の時を経て、空海は今毛人が終に行くことがなかった唐へ向けて旅立つこととなる。
元々、隠れキリシタンのことを知りたくて、いつか訪れたいと思っていたのだが、この島が空海に結びついた時から、それまで抱いていた願望が、意志に変わって行った。「行きたい」と思っていたことが、「行かねば」という思いになったのである。
三月半ば、神戸空港から長崎に向かって旅立つ予定だったが、折からの強い風雨のため、最初から躓いた。先ず出発が遅れ、三十分後ようやく飛び立ったものの、機内アナウンスでは天候状態によっては福岡空港か、関西空港に着陸するという。
不安を抱きつつ、大揺れのなかで十一時には長崎空港に到着。機内から出ると意外なことに、もう雨は止んでいた。そこからエアポートライナーで大波止へ。そこから長崎港のターミナルビルへ歩いて行く。長崎からの船便はほとんどここに集約されている。長崎港から福江港への便はその日は第一便からすべて欠航していた。予約していた便までにはかなり時間があったが、予定通り出航するかどうかは一時間前にならなければ判らないという。荷物をコインロッカーに入れて、しばらく長崎の町を歩くことにした。
眼鏡橋辺りで昼食を摂り、大浦天主堂を見た後、長崎県立美術館でクリムト展を見ようと思っていたが、時間的に余裕がなくミュージアム・カフェでお茶だけ飲むことにして、その席から港へ電話を入れる。幸い予約していた便は出航するという。只この便が最終便となるので、かなりの混雑が予想されるため、出来るだけ早く来てほしいとのことなので、慌てて長崎港に向かう。
切符を受け取り、しばらくしてからジェットフォイルの碇泊している突堤へ。確かに混雑している。しかも本来は寄港するはずの上五島へは寄らないということである。雨もまた降り出して来ていた。
船は長崎港を出航し、ただどんよりと灰色一色の海の上をひたすら福江港に向けて行く。船の硝子窓には大粒の雨が絶え間なくぶつかり流れてゆく。時折海は灰色の鉄板そのものになり、船がそこに当たるとバリバリバリと音を立てる。乗客はその旅に不安げに顔を見合わせ、時には小さな叫び声をあげる。こんな内海で僅かな時間でさえ、時に恐怖が横切るのだから、大昔、遣唐使の頃は如何ばかりであったろうかとつくづく思う。長時間外海で、もっと荒い波に翻弄され続けたなら、小さな木造船など一溜りもなかったであろう。そのような思いのなか、船は二時間弱で福江港に到着した。
翌日、レンタカーを借りて福江島をほぼ一周することにした。
もちろん一番の目的は、遣唐使船が最後に碇泊したと思われる「美禰良久(みねらく)の崎」である。

福江島の西北部、五島市三井楽町にその岬はある。今は柏崎と名づけられ、柏崎燈台が立ち、小さな公園のなかに「辞本涯」と彫られた石碑が立っている。古代にはこの五島列島が日本の西の果てと考えられていた。そしてこの岬がその西北端だったのである。三井楽教会を左手に見て郵便局の前を通り過ぎ、突き当りまで来た辺りで、道に迷って結局一周し、また元の場所に戻った。最初あまりにも細い道で、行けるかどうか判らなかったのだ。再度来た折にはそれ以外に道はないので、覚悟してその細い道を進む。半信半疑でしばらく行くとようやく海が見えた。海の傍のやや広い場所で車を停め、そこからさらに左へ曲がって歩いて行くと石碑の後ろ姿が見える。なだらかな斜面に「辞本涯」の石碑と弘法大師像が建てられていた。少し離れた海際には細い燈台が立っている。
岸壁に立って西北端の岬から海を望む。薄曇りの空の下、水平線はほとんど空に溶け込んでいる。西の果ての海はどこまで行っても海で、茫洋と掴みどころがない。

この入り江に浮かんでいたであろう木の船団を思う。波に揺られ、日に照らされた小さな小さな船。それは希望というよりも不安 の塊であったであろう。そしてその船に乗っている多くの人々を思う。さらにそのなかの一人であった空海、そのひとを思う。おそらく空海の瞳は輝いていたに違いない。彼一人は希望に充ちていたであろう。彼のみが明らかに確かな目的を持っていたのだから。彼の希望の象徴のように海の上には一羽の鳥が舞っていた。
帰る日の朝、福江島から久賀島(ひさかじま)に渡ることにした。日本国内ではあまり知られていないが、久賀島は日本最後のキリシタン弾圧で世界に知られている島である。もちろんそのようなカトリックの教会や記念堂を訪ねることも大事であり、いつかまたそのことについては書きたいと思っているが、今回のもっとも重要な訪問先は遣唐船の最後の寄港地を見ることだった。
福江港を朝九時一〇発のジェットフォイル、シーガルで出航する。生憎の雨で旅の初日よりはましだったが、同じように船の硝子窓には水滴が流れ落ちていた。硝子の枠の中で、切り取られたた一枚の墨絵のような海の端に、赤い燈台が立っていた。

二十分弱で久賀島の島影が見えてくる。近づくにつれて山の中腹の緑が濃くなってゆく。
入り江のはずれに風雨にさらされた鳥居がある。船が田ノ浦港の湾口に近づくとすぐ右手に見えることになる。

この神社を囲う石垣や境内には、十四世紀後半頃の五輪塔、それも関西で製作され運ばれてきたものが数基分確認されているという。空海がこの港から唐へ向けて発って行った時、果たしてこの神社が存在したのかどうか。もしその時もここにあったとしたら、唐へ渡る前に彼らはここで祈ったであろう。旅の安全を。再びここへ戻ってくることを。そして空海もまたそのなかに混じって、彼が欲するすべてを学び尽くすことをも祈ったに違いない。
田ノ浦神社の御神体として祀られているのは神像ではなく仏像であった。いわゆる<「本地仏」としての仏像である。
今回は地図にも載っていないので、探し出すことが出来なかったが、田ノ浦港のやや左手に立つと言われる「薬師堂」には、平安後期に比定される木造仏があるという。また田ノ浦神社の対岸に立つ明(みょう)神社には、明徳年間(一三九〇~一三九三)、応永六(一三九九)年に製作された仏像が安置されていたという。
また久賀島の四か所で九基分の中世・石塔類が発見されている。先に書いた田ノ浦神社の石塔、薬師堂の五輪塔、蕨地区五輪塔、さらに五輪地区五輪塔。田ノ浦神社の石塔は兵庫県の御影石と肥後産の溶結凝灰岩、薬師堂のそれは同じ肥後産と、西彼杵半島の緑泥片岩、蕨の石塔は福井県高浜町日引地区で製作され、五輪地区のものは佐賀の安山岩製塔と思われるという。これらの石塔群は当時の海のネットワークの存在を示唆し、その中心となった海人集団の存在が浮上する。
中国の古文書にも田ノ浦は「達奴鳥喇(たのうら)」として描かれ、九州本土や対馬・壱岐などと比較して大きく書かれていることからも、当時東シナ海を縦横無尽に活動していた海人集団の根拠地として強い関心を持たれていたことを物語っている。

小さな港の桟橋に降り立った時、ああ、とうとう来たのだ。私は声にならない声を上げていた。この西の果ての入り江に。ここから空海の夢がはばたいてゆくその港に。何もない只の海と入り江、静けさだけが満ちている風景だったが、私にはなぜか、古代の遣唐使たちと、多くのその船で働く幾人もの人々のざわめきが聞こえたような気がした。
☆
延暦二十三年七月六日、肥前国田浦を出発した四隻の船は、翌七日には暴風雨に遭遇する。『日本後紀』には「七日戌剋第三第四兩船火信不應、出入死生之間、掣曵波濤之上、都卅四箇日、」と書かれているのみであるが、『遍照發揮性靈集』には次のように書かれている。
既辞本涯比及中途。暴風穿帆鄭󠄀■風折柁高波沃漢短舟裔裔。
暴風朝扇嶊肝耽羅之狼心。北氣夕發失膽留求之虎性。頻蹙猛
風待葬着龞口攅眉驚汰占宅鯨腹。随浪昇沉任風南北。但見天
水之碧色。豈視山谷白霧。掣掣波上二月有餘。水盡人疲海長
陸遠。飛虡脱翼泳水殺鰭。何足爲喩哉。僅八月初日。乍見雲
峯欣悦罔極。過赤子得母。越旱苗之遇霖。
(こうしてひとたび本国の岸を離れて中途にまで及んだこ
ろ、暴風雨が帆を破り、大風が柁を折ってしまった。高波は
天の河にしぶくほどとなり、小舟は波間にきりきり揉むあり
さまとなった。南風が朝に吹いてくれば、済州島の人たちの
のような心に肝を冷やし、北風が夕方に吹き来たれば、琉
球の虎のような民たちの性質に胆を失ってしまった。猛風が
吹き来たれば、これに顔を顰めて、そのまま死んで葬られて大亀の口に入るのではないかと覚悟し、大波に眉をひそめて、終の住みかを鯨の腹の中に定める気になった。浪のまにまに浮き沈みし、風の吹くままにまかせて南北に流れた。ただ天と海の水色の世界だけを見ていた。どうして山や谷の白い霧を見ることができようか。浪の上にたゆたうこと二月あまり、ついに水は尽き人は疲れて、なお海路は長く、陸路はは遠い。空を飛ぶ鳥の翼が脱け、水を泳ぐ魚の鰭が傷んでいるのも、どうして、今のわれわれの苦しみの喩えとするのにじゅうぶんといえようか。
ようやく八月のはじめに、突然、雲のかかった山を見た。見るや、一同の喜びは限りなかった。(その喜びは)赤子が母に会ったのよりも大きく、干あがった苗田に長雨が降ったのにまさるものがある。)
空海が乗った船はただ一隻、三十四日、波間に漂い、八月十日に福州長渓県赤岸鎭の以南の海岸に漂着したのである。
後に『御遺告』にはこの時のことを次のように書かれている。
天應慇懃。戴勑渡海。彼海路間三千里。先例至干楊蘇州無價云云。而此度般増七百里到衡洲多礙。此間大使越前國太守正三位藤原朝臣賀能。作自手書呈衡洲司。洲司披看即以此文己了。如此兩三度。雖然封舩追人令居湿沙之上。
(勅命に天が応じて順調に海を渡ることができれば、わが国と唐との距離は三千里である。以前からの例によれば、揚州や蘇州に到着し、何の問題もなかった。
ところが、今回、わたくしの乗った船は、七百里も増して(南下し)衡洲に漂着し、さまざまな難関に直面した。その間遣唐大使の越前国の太守・藤原朝臣賀能は、自ら親書を作って衡洲の朝刊に送った。洲の長官は、賀能の送った文書を披いて見ただけで捨ててしまった。このように文書を送ることが二度、三度と繰り返された。しかしながら、船は閉じてしまい、一行を追いやって湿った砂べに居らせた。)
遣唐大使賀能は「今は憂うべき時です。貴僧は名文能筆の人でいらっしゃるのだから、私に代わって、文書を提出して下さい。」と空海に依頼したという。(『御遺告』)
空海はこれに応じ、後に『遍照發揮性霊集巻第五』に収められている「爲大使與福州観察使書一首」を上呈する。これは『三教指帰』以来、空海による初めての公式文書と言えるが、代筆であるがゆえにどこにも空海の名前は書かれていない。これによって一行は入京許可を得るが、空海自身の名は許可された二十二人の中に含まれていなかった。空海は驚愕し、さらにもう一通の文書を提出する。これが「請福州観察使入京啓一首」で、同じく『遍照發揮性霊集巻第五』に収められている空海個人のために書かれた文書である。この二つの文を読む時、明らかに公私の違いを、同時期にこのように書き分けられるということを、短い文ながらはっきりと示していて興味深い。それはかつて『三教指帰』と『聾瞽指帰』を読み比べた時もそうだった。いかようにでも書き分けられる空海の卓越した才能の発露であろう。
一行は十一月三日、長安に向けて出発する。十二月二十一日に長安城東側の春明門長楽駅に到着。二十三日には朝廷からの内使に伴われて、長安城に入り、宣陽房にある宿舎に滞在することになる。
五十八日間が過ぎると勅使が来て、さらにその次に迎客使が来た。「長安に入る儀式は、筆舌に尽くすことが出来ないものであった。〈中略〉
延暦二十四年仲春(大唐の貞元二十一年)、大使の賀能太夫たち一行は(すべての行事を終えて)さきに日本へ帰国することになった。」
延暦二十四年二月十日、空海は橘逸勢と共に長安に留まり、「勅に従い西明寺に配住する」ことになる。(『請来目録』)
空海は長安に来て、すぐには青龍寺を訪れなかった。これまでの空海の生き方から見ても、彼は事を成すにあたって、常に万全の準備を怠らない。この時もまず長安の醴泉寺で、般若三蔵と牟尼室利三蔵からサンスクリット語とインド哲学を学ぶ。(『秘密曼荼羅教付法伝』)
そして空海は長安の城中の諸寺を歴訪し、この人こそ自らの師だと思う人を探し続けていた。
そのような日々を過ごし続けて、その年の六月十三日、空海は
偶々青龍寺を訪れ、恵果に出会うのである。
恵果もまた待っていた。一身をかけて、一生涯をかけて、会得した密教の教え、すなわち「金剛薩埵が大日如来の三昧の教えを問うたのち、受け継いだ教え」をさらに継ぐものを。
『遍照発揮性霊集序』には次のように書かれている。
天随其願果擢求法。去延暦末衒 命入唐。適見京城青龍寺大
德恵果阿闍梨即南天竺大辯正三蔵上足弟子。代宗皇帝所師
供也。和尚始一目以喜。待己厚曰。吾待汝久来何遅矣生期向闋精勤早受。則授二部大曼荼羅法。百餘部秘蔵。上人性也。
得善聆聲知意經目止口。積年之功旬時學得。大師亦奄然而從化。故付法云。今夕日本沙門。来求聖教。以兩部秘奥壇儀印契。唐梵無差忝受於心。猶如瀉瓶。吉矣。汝傳燈了。吾願足焉。
(天はその願いに応じて、果して唐への留学僧に選ばれた。去る延暦の末、君命をうけたまわって入唐され、運よく都長安の青龍寺の大徳、慧果阿闍梨に合われた。彼は南天竺出身の大弁正三蔵の弟子であり、代宗皇帝が師として供奉した方である。慧果和尚は最初に一目みただけで喜ばれた。以後待遇厚く、「わしはおまえを長い間待っていた。来るのが何と遅かったことか。わしの生涯はもう終わろうとしている。精励して早く受けよ」といわれた。そして二部の大曼荼羅の法と百余部の秘蔵の書を授けられた。上人(空海)の天性は、声を耳にするやその真意を悟り、文字に目をとおすと口にのぼせることがおできになった。ひとが何年もかかることを、短時日で自分のものとされた。大師慧果も直ぐになくなられたが、そのため仏法を伝授するときにいわれた。「今、日本の僧が来唐して仏陀の教えを求め、二部の曼陀羅・作壇の規則・印契を乞うた。唐語も梵語もまちがいなく、すべて心に刻みつけた。ちょうど水をもれなく一つの瓶から他の瓶へ移すようなものだった。めでたいことだ、おまえは受法を終え、私も願いがかなえられた。)
当時の密教はもはや現代の中国には存在せず、空海自身、あるいは周囲の人々によって書かれた文献のなかだけからしか、当時の状況を知る術がない。したがってここではもう少し文献を共に読んでいきたいと思う。
『請来目録』には次のように書かれている。
幸遇青龍寺灌頂阿闍梨法■恵果和尚以為師主。其大徳則大興
善寺大廣智不空三蔵之付法弟子也。■釣経律該通密蔵。法之
綱紀國之所師。大師尚仏法之流布歎生民之可拔。授我發菩提
心戒許我以入灌頂道場。沐受明灌頂再三焉。受阿闍梨位一度
也。肘行膝歩學未學稽首接足聞不聞。幸頼 國家之大造
大師之慈悲學兩部之大法習諸■之瑜伽。斯法也則諸佛肝心
佛之経路。於國城■於人膏腴。
(幸いに青龍寺の灌頂阿闍梨法号恵果和尚にめぐりあうこと
ができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子であります。和尚は経典と戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒を授け、私に灌頂道場に入ることを許し、受明灌頂を受けること、再三に及びました。阿闍梨位を受けたのは一度でした。ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩大いなる師の字悲によって、両部の大法を学び諸尊の瑜伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。)
さらに本文では詳しく時系列的に書かれている。
和尚乍見含笑喜歉告白。我先知汝来 相待久矣。今日相
見大好大好。報命欲竭無人付法。必須速辯香花入灌頂壇。
即帰本院營辯供具六月上旬入學法灌頂壇。是日臨大悲胎
蔵大■陁羅依法抛花偶然着中台毗盧遮那如来身上。阿闍梨讃曰。不可思議不可思議。再三讃歉。即沐五部灌頂受三密加持。従此以後受胎蔵之梵字儀軌學諸尊之瑜伽観智。七月上旬更臨金剛界大曼荼羅重受五部灌頂。亦抛得毗盧遮那。和尚驚歎如前。八月上旬亦受傳法阿闍梨位之灌頂。是日設五百僧齋普共四衆。青龍大興善寺等供奉大徳等並臨齋筵悉皆随喜。金剛頂瑜伽五部真言密契相續而受。梵字梵讃間以學之。和尚告白。真言秘蔵経諸䟽隠密不假圖畫不能相傳。則喚供奉丹青李真等十餘人圖繪胎蔵金剛界等大■陁羅等一十鋪。兼集廿餘経生書寫金剛頂最上乗密蔵経。又喚供奉鑄博士趙呉新造道具一十五
事。圖像寫経漸有次第。和尚告白。吾昔髫齓之時初見三蔵。三蔵一目之後偏憐 如子。入内歸寺如影不離。竊告之曰。汝有密教之噐努力努力。兩部大法秘密印契因是學得矣。自餘弟 子若道若俗。或學一部大法或得一尊一契不得兼貫。 欲報岳瀆昊天罔極。如今此土縁盡不能久住。 宜此兩部大曼荼羅一百餘部金剛乗法及三蔵傳付之物並供養具等請歸本郷流傳海内。纔見汝来恐命不足。今則授法有在。経像功畢。早歸郷國以奉國家流布天下増蒼生福然則四海泰万人楽。是則報佛恩報師德為國忠也於家孝也。義明供奉此處而傳。汝其行矣傳之東國。努力努力。
( 和尚はたちまちご覧になるや笑みを含んで、喜んで申されました。「私は前からそなたがこの地に来られているのを地って、長いこと待っていました。今日会うことができて大変よろこばしいことです。本当によかった。私の寿命も尽きようとしているのに、法を授けて伝えさせる人がまだおりません。ただちに香花を支度して灌頂壇に入るようにしなさい」と。
早速、西明寺の私院に帰り、灌頂のためにご供養する支度の法具を準備し、六月上旬に学法灌頂壇に入りました。この日、大悲胎蔵大曼荼羅にのぞみ、法によって投花したところ、偶然にも中台八葉の中の毘盧遮那如来の仏身の上に落ち着きました。恵果阿闍梨は賛嘆して、「不可思議なことだ、不可思議なことだ」といわれ、再三賛嘆されました。次いで、五部灌頂に浴し三密加持を受けました。これより以後、胎蔵界の梵字と儀軌を受け、諸尊の瞑想を観想する智慧を学びました。
七月上旬にはさらに金剛界大曼荼羅にのぞみ、重ねて五部灌頂を受けました。また投花して毘盧遮那如来を得ました。恵果和尚が驚き賛嘆されたのは前の時と同じであります。八月上旬にはまた伝法阿闍梨位の灌頂を受けました。この日は五百人の僧にお斎を設けて供養し、あまねく出家の比丘・比丘尼や在家の善き男子・善き女子に供養しました。青龍寺や大興善寺などの供奉大徳たちが並んで、 そのお祝いのお斎の席に臨んでみな随喜いたしました。『金剛頂瑜伽経』に説く五部真言や密契をあい続けて受け、梵字梵讃は休む間も惜しんで学びました。
恵果和尚が申すのには、「真言秘蔵は経や疏には隠密で、図画をかりなければ、あい伝えることはできません」と。そこで、供奉丹青や李真らの十余人をよんで、胎蔵界や金剛界などの大曼陀羅など十府の図を画きました。直また、二十人余りの写経生を集めて、『金剛頂経』などの最上乗密蔵の経を書写しました。また供奉鋳博士楊忠信(超呉)をよんで新たに道具十五点を造りました。像を画き、経典を書写することも、こうして順々と進みました。
恵果和尚が私に次のように言いました。「私は昔、たれ髪で歯のぬけ変わるころ、初めて不空三蔵に会った。三蔵は私を一目みてから、ひたすらわが子のように可愛がってくれた。実家に行く時も寺に帰っても、影のように私に離れなかった。ひそかに私に次のように言った。『おまえは密教の器だ、努力しなさい、努力しなさい』と。両部の大法と秘密の印契は、こうして学び得た。他の弟子、或いは出家したもの、或いは在俗のものも、一部の大法を学んだり、一尊一契を得たものはいたが、両部にわたり、兼ねつらぬいて得た者はいない。師の恩の山よりも高く、海よりも深いのに報いたいが、夏の空のように高く極まりがない。今、この世の縁も尽きようとしていて、久しく留まることはできない。よろしくこの両部の大曼荼羅と、百余部の金剛乗の法と、不空三蔵から転じて付嘱された物と、供養の法具などを本国に持ち帰って、教えをひろめて欲しいのです。ただわずかにそなたが来たのをみて、寿命の足らないことを恐れていました。しかし、今、ここに法を授けることができました。写経や造像の作業も終了したので、早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人びとの幸せを増すようにしなさい。そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう。
これこそ仏の恩に報い、師の徳に報いることであり、国のためには忠、家には孝になるのです。
義明供奉はこの国に教えを伝えよう。そなたはさあ帰ってこの教えを東国(日本)に伝えなさい。一所懸命つとめなさい」と。)
そして空海は次のように続ける。
付法慇懃。遺誨亦畢。去年十二月望日蘭湯洗垢結毘盧遮那法印右脇而終。是夜於道塲持念。和尚宛然立前告曰。我与汝久有契約誓弘密蔵。我生東國必為弟子。委曲之言更不煩述。阿闍梨付嘱受法之由大體如是。
(付法は誠に慇懃に、こうして遺誨もおわりました。(恵果和尚は)去年十二月十五日、蘭の香も芳しい湯に垢を洗い清め、手に毘盧遮那の法印を結んで、右脇に体を横たえてなくなりました。この日の夜、道場において、冥福を念じていると、恵果和尚がさながらに私の前に立って次のように告げました。「わたしとそなたとは久しい契りと約束があって、密教を弘めることを誓い合ったので、わたしは東国(日本)に生まれ変わって必ずそなたの弟子となろう」と。
くわしい言葉は、これ以上は煩わしく述べませんが、恵果阿闍梨からの付嘱と受法の由はだいたいこのようなものでありました。)
この文にあるように、この年十二月十五日、恵果和尚は青龍寺東塔院にて、六十歳で入寂され、空海は阿闍梨の付嘱物をすべて付嘱されたのである。
翌年一月十七日、諸弟子千余人を代表して、恵果和尚追慕の碑文「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」を撰した。
生也無邊 行願莫極 麗天臨水 分影萬億
爰有挺生 人形佛識 毗尼密蔵 呑■餘力
修多與論 窂籠胸臆 四分■法 三密加持
國師三代 万類依之 下雨止雨 不日即時
所化縁盡 ■焉歸真 慧■己滅 法雷何春
梁木摧爰 痛哉苦哉 松檟封閉 何劫更開
生きているものは無限であるから
衆生済度の願いは果てしがない
天にはりつき水に臨む日月
その光は細く分かれて万物を照らす
ここにぬきんでた人物がいる
人の姿をして仏の智慧をもつ
律蔵と密教の教えと
あわせ呑んで余力がある
経蔵と論蔵とは
胸のうちにしまっている
四分の戒律に規範をとり
密教の教えを実践され
三代にわたって国師となられ
万民は彼に頼った
雨を降らせ雨を止めるのは
日を経過せず即時に効験があった
弟子との因縁が尽きて
やすらかに真実の世界に帰られた
智慧の燈明はすでに消え
迷いを覚ます仏法の春雷はどこへ行ったのか
梁木のくだけるように偉大な人はなくなった
痛ましいことよ、苦しいことよ
松や檟は墓の入口をふさいでしまった
いつの時代になったらもう一度開くであろう
同じ月に帰国を願う二通の文書を遣唐判官高階遠成に提出し、四月越州の節度使に書を送り、内外の経書を蒐集する。
そして八月、高階遠成等と明洲を発し、帰途に就くのであった。
この遣唐第四船については資料がほとんどなく、空海の草した「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」及び、橘逸勢の代筆で「橘学生、本国の使に与うるが為の啓」の二書、また唐側の記録である『旧唐書』及び『新唐書』のみである。
空海も橘逸勢も長期の留学僧、留学生として申請しての滞在だったので、二年に満たない滞在で帰国するのは、本来なら違法であった。偶々一年遅れで高階遠成が入唐したので、奇跡的に帰国できる機会に恵まれたのであった。その往復は南路を利用し、比較的順調に航海したものと推定される。
日本に帰着した場所もはっきりしていない。『眞俗雑聞集』の弘法大師略記に「大同元年酉戌十月三日帰著西府、年三十三。」と書かれているだけである。その後、空海は京に上る高階遠成に託し、『新請来経等目録』を進献するが、その時付けられた「上新請来経等目録表」には「大同元年十月廿二日入唐學法沙門空海上表」と書かれている。
遣唐船出発の折は、田ノ浦から出発したが、先に書いたようにこの地が「達奴鳥喇」として中国の古文書にも描かれていたことから推測して、おそらくはまたこの浦を目指して戻って来たのであろうと思われる。
福江島を訪れた時、島の南西端(五島市玉之浦町)にある大宝寺という寺院を訪れた。「西の高野山」とも言われ、大宝元年(七〇一年)震旦の国(現在の中国)より三輪宗の祖師、道融和尚が来朝し弥勒山観音院大宝寺を開創する。第四十一代持統天皇の勅願寺でもある。
大同元年(八〇六年)、空海が帰朝する際に大宝寺の付近に漂着したと伝わり、この地に滞在し大宝寺において本邦初めての真言密教の講莚を行い、三輪宗を真言宗に改宗したと言われる。
遣唐船の南路については諸説があって、正式の航路であったのか、あるいはたまたま帰路、南島に漂着した時にとる仮の航路であったのかということが問題になっているという。いずれにせよ、空海の乗船した第四船の出発した港は田ノ浦であり、帰着したのはおそらくはこの玉之浦であったと思われる。空海にとって、この五島は祖国の忘れられない門口であった。

もう一か所、空海につながりが深い寺院を訪ねた。元々は領主の五島家代々の祈願所だった明星院である。本堂は五島最古の木造建築物。本堂の天井は格天井になっていてる。
空海が唐から帰国した時に、しばらく滞在したと言われ、明星院の名は空海が名付けたのだという。。住職夫人のお話によると、ご本尊で秘仏の虚空蔵菩薩はどこから来たのかわからないのだという。空海は大宰府に滞在するようになっても、よくこの寺院を訪れ、ずっと修行を続けていらっしゃったのだということだった。


空海は大学寮を出奔し、行方知れずの旅を続けていた頃から、「虚空蔵求聞持法」を修することを続けていたのだった。それは時を経ても、処が変わっても、決して変わらない。おそらく五島においても、あちこちを歩き回り、心に響き、何かに出会う機会を求めていたに違いない。
唐か、新羅か、高句麗か、どこのものともわからない秘仏と言われるこの虚空蔵菩薩に出会った時、空海は心震える思いで見つめたであろう。そして何度も足を運び、やがてはそのお堂に籠って「虚空蔵求聞持法」を修したに違いないのだ。もちろんこの時は恵果和尚のもとで、香花を手向けた毘盧遮那如来にも、後に最も帰依する弥勒菩薩にも出会っていたに違いない。けれど遍く宇宙を統 べる「虚空蔵菩薩」に対する尊崇の念は、いささかも変わってはいなかったに違いない。