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風の起こる処
       
ー空海を巡る旅   

​序章

 枝垂桜が最期の花びらを落としてからひと月余りが経ち、緑の葉は房状に広がり樹蔭を生み出し、その隣で三百年の樹齢を持つ黐の木は、黄に染まった春の落葉を降らせている。空を覆う高い梢では小鳥が啼いている。開け放した扉から風が黄葉を運んで来る。風が吹いている。風が緑を揺らしている。

 

 一九九七年三月、私はタヒチに住んでいる友人の案内で、パペーテから車で三十分位のパペアリという村にあるミュゼ・ゴーギャン(ゴーギャン美術館)を訪れた。ゴーギャンの絵は二、三枚しかなかったが、彼自身の手で作られた木のスプーンや、扉の回りを飾る木彫りの装飾が残されていた。そこには次のような文字が刻まれていた。

  Soyez amoureuses et soyez myst rieuses,

         Vous serez heureuses.

 

 (愛すれば、神秘であれば幸せになれる。)

なぜゴーギャンはこんなにも離れた南太平洋の島に、はるばるパリからやって来たのだろうか。現在でもタヒチからパリへ行くには、空路で二十二時間もかかるのだ。その当時、飛行機などあるべくもない。アフリカまで陸づたいに南下し、そこから船で何か月もかかって続けられる旅、無事に辿り着けるかどうかさえも危ぶまれる旅であった。それでもなお彼はタヒチに渡り、しかも一度ならず再度、そして最後にはタヒチよりもさらに未開の島であるマルケサスでその生涯を終えている。彼は何故このポリネシアの島々にこれほどまでに魅かれたのか。彼の刻んだ言葉のなかにある「神秘」とは何なのか。

 私はミュゼ・ゴーギャンの建物の中を、あるいは建物から建物へと渡る舗道を歩きながら考えていた。けれど何ひとつ答は得られなかった。ただその間ずっと、さわさわと椰子の葉ずれの音がしていた。その時私はふと思ったのだ。そうだ、彼はこの風の音を聞いてしまったのだと。

 ちょうど一年前、私はパリに一週間ほど滞在したのだが、パリではこのような風の音を聞くことは決してなかった。しかしこのポリネシアの島々ではいつも風の音がしていた。タヒチでも、ボラボラでも、フアヒネでも。その上絶えまない波の音が聞こえた。タヒチからボラボラに渡った日の夜、波打ち際のすぐそばに建てられたバンガローで眠ることになり、一晩中打ち寄せる波の音で眠れない夜を経験した。夜半、突然のスコールが襲い、椰子の葉で編まれた屋根の隙間が、雷が光る度に星空のように光った。

 

 日本に帰って来てからも、私はずっと考え続けていた。あの島々が都会と違う第一の理由は風の音がすることだった。これまで生きて来た歳月のなかで、私は幾度風の音を聞いてきただろうか。私にとって風の音とは一体何なのだろうか。もしかするとそれこそがゴーギャンの言う「神秘」につながることなのではないだろうか。

 

 

 話は全く変わるがここ数年来、私は密教に魅かれ、多くの密教の書物を読んできた。そして幾つかの「真言」を覚え、今では中学に入って以来ずっと唱え続けていた「就寝前の祈り」の後に「十三仏」の真言と「光明真言」を付け加えるようになってしまった。(もちろんこれは全く自分勝手なやり方で、本来のあり方からはかけ離れていることだろうし、多分どちらの宗教からもお叱りを受けるかもしれない。)

 

 その「十三仏」の真言のなかで、大日如来だけが金剛界と胎蔵の二つの真言を唱えることになっている。その後者の真言が「アビラウンケン」であるが、これは大日如来の報身を表わす。大日如来には三つの仏身があるとされるのだが、この報身は法身と應身の間に立てられる。應身が生身を名づけたものに対し、法身とは「六大」を名づけたものである。普通一般に「五大」というのはよく言われるが、密教だけが「六大」を言い、「地水火風空」に「識」を加えたものである。

 

 風のことを考え続けてきて、私はまず「五大」のうちの「風」を思った。そう言えばタヒチでの一夜、私たちを招いてくれた友人の婚約者であるベルギー人の青年と、彼女の日本語のクラスの生徒である中国人の男性との三人で「五大」の話をしたのだった。そして帰国して後、真言について書かれた書物を読んでいて、「六大」に出会ったのである。風を追いかけてきて出会ったこの「六大」について、とりわけ「識」について知りたくなり、しばらくの間、その周辺を私なりにさまよってみたいと思うようになった。それが私にとって「風」とは何か、という答につながるのではないかという予感を覚えながら。

 

 まず「識」のつく言葉を『広辞苑』のなかから拾い出してみる。知識、認識、意識、……。色・声・香・味・触・法の六境を知覚する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、の五識と意識の総称である「六識」。意識とともに内面的経験である第七識の末那識と、阿頼耶識を付け加えた「八識」。さらにその上に菴摩羅識を加えた「九識」。第七識の末那識は第六識が睡眠・失神などにより断絶するのに対し、生きている限り常に持続し、自我を統一する自己意識であり、仏教ではこの意識を根源として無明・煩悩が発生すると説かれる。第八識の阿頼耶識は蔵識、無没識とも言われ、経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動の根源となるところの精神的基底であり、自己意識のよりどころとなると考えられる。最後の九識である菴摩羅識は、第八識の阿頼耶識の本体で、真如の理体(万物の本体、理性)である。

 さてこれらの言葉をいったん脳裡の隅において、「六大」と「識」について密教ではどのように考えられているのかを探ってゆきたいと思う。

 

 JR京都駅から南西の方角を眺めると五重塔が見える。一般には東寺と呼ばれる教王護国寺である。弘法市で知られるこのお寺を最近訪れることがあった。ちょうど蓮池に何十本もの蓮花が咲く真夏日のことだった。境内ではその日も骨董市が開かれていた。市の風景を横目で見ながら講堂に入ると、そこには大日如来を中心として二十一躯の仏像からなる立体曼茶羅が置かれている。即ち五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天、である。このうち十五躯は平安時代前期を代表する我が国最初の密教像と言われている。弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇から空海に下賜されたこの寺は元の場所に現存し、今に至るまで空海の思想を顕現し続けている。

 空海が五大明王に関心を持っていたことは『仁王経五方諸尊図』を請来したことからも明らかであるし、大覚寺において空海が住したと言われる五覚院の本尊は五大明王像であり、とりわけ不動明王に対する信心には深いものがあったと思われる。東寺の御影堂に秘仏として残る不動明王像は空海の持仏と伝えられるし、高野山南院の波切不動は、寺伝によれば、空海が師恵果から霊木を授けられ自刻したもので、帰路暴風雨にあった時、波を切る姿を現じて無事帰国することを得たと伝えられている。

 この五大明王は内外の魔障を降伏するために至現した五仏の教令輪身(済度し難い衆生に対し忿怒の姿で現れ仏道に導く)で人間の九識のあらわれであるという。即ち不動明王の頭上の蓮華は第九識を、降三世明王の八臂は八識を、軍茶利明王の身体にまとっている蛇は第七識を、大威徳明王の六面六臂は第六識を、金剛夜叉明王の五眼は前五識を表すとされる。

 

 空海の一生を眺めると幾つかのエポックがあり、それぞれの時期に大きな影響を与えたと見られる御仏や経論・書物がある。空海の伝記に属することは既に小論を書いたこともありここでは詳しく述べないが、青年期の空海にとって重大な二つの御仏は大日如来と虚空蔵菩薩であったと思われる。大和国高市郡久米寺の東塔下において空海は大日経を発見する。このことが彼のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではない。既にそれ以前に彼は南都の寺々、ことに東大寺において学解の宗教を独習し、又この時期の有力な学僧であった勤操から格別な庇護を受け、各地の諸寺を歩き、万巻の経典を読んでいた。それでもなお彼は、華厳経を頂点とする従来の仏教思想に飽き足らないものを感じていたに違いない。同時期に山林を巡り雑密に出会い、「虚空蔵求聞持法」も修得している。

 『三教指帰』はこの時期の空海の姿を彷彿させるが、空海自身とも思われる「仮名乞児」は、ひとは「天にあこがれる以外に生きる方法はない」と断言している。大学を飛び出してから入唐までの謎につつまれた時期に、彼は放浪しつつ求め続けていたに違いない。「ひとは何か」ということの、そしてひとにとって真実の充足とは一体何なのかということの答を。

 やがてそれがひとつの経験に結びつく。

 「或■土佐室生門崎寂暫。心觀明星入口。虚空蔵光明 照来顯菩薩之威現佛法之無二。」   (『御遺告』)

 (あるいは土佐の室戸岬で暫く心静かに留まっていた心のなかで虚空蔵菩薩を観想していると、明星が口に入った。虚空蔵菩薩の光明の輝きは、菩薩の威力を顕現し、仏の教えのかけがえのないことを示した。)

 

 おそらくどんなに学問を究めても、どれほど処世の術に長けていても、ひとはそれだけでは充たされない。空海は大学明経科を飛び出した時に、そのことを嫌というほど感じていたであろう。空虚さをも感じていたであろう。ならばその空虚さを埋めるものとは一体何なのか。山林の中をさまよって生活し、雑密に出会い、ひとは宇宙との合一を実感したときにはじめて、真実の充足を得られるということを、彼は肌で感じはじめていたに違いない。それとともにひとはその宇宙を内部にも持っている。そのことにいかにめざめるか。そして外なる宇宙と内なる宇宙をいかに呼応させるか。

 「虚空蔵菩薩というのは天地一切の現象であり、ひとがその現象の玄妙さに驚嘆を感じたとき、たれの前にでもこの菩薩は姿をあらわす」という。

 空海はたしかにこの宇宙の只中で生きていると感じ、時にはこの宇宙の息吹きのなかで合一感を感じたであろう。その時彼は虚空蔵菩薩を見た、あるいは見たと感じたに違いない。そして大日経に出会った時、さらにそれを超えて、天地一切の現象のみならず、ひとの心のありようをも含む仏の智恵に触れたのである。彼の直感は大日如来の秘密荘厳に既に到達していたに違いない。しかしそれを偶然や稀有のこととしてではなく、いかに平常心として保ち得るか。大日経に書かれている実修的な部分は、彼にとって全く未知の事柄であり、我が国では学ぶべくもない。これは何が何でも唐に行かずばなるまい。彼がそう考えたのは当然のことであろう。

 

 私はかつてカトリックの信仰の前に佇み、どうしても信じ切れなかった頃のことを思い出す。私は宇宙のすべての「創造主」を信じることは出来た。しかし人であって神であるというキリストの「神格」をいかにして認めるかというところで立ち止まってしまったのである。そして又、無限の存在を有限の存在が愛することが出来るのかという問いの前で、さらにその疑問は増幅した。それから何年間か納得できないまま求め続けていた頃、これまで全く理解できなかった「聖霊」の存在が、払暁のように心の闇に入って来た。そのような私自身の貧しい経験を思い重ねると、入唐時の空海は漠然と大日経と大日如来について知りたいという希求は持っていたにせよ、「密教」そのものをすべて、などというはっきりした輪郭を持っていたのではなかったような気がする。

 空海は前述したように「天にあこがれる以外に生きる方法はない」人間だった。これは言い換えれば本来宗教的体質を持つ人間であるということである。そして彼は無意識のうちに自分の思想にぴったり合うものを探していたに違いない。長安の都で西明寺を宿舎として半年近くの歳月の間、彼は考えていたのかもしれない。青龍寺の恵果こそが密一条の伝法を授ける唯一の高僧であるという。しかし果たして本当にそのひとが自分の求めるひとなのか。その教えが自分の求めているものなのか。

 その逡巡を吹き飛ばしたのはおそらく恵果が病んでいるという事実であったろう。これ以上時を遅らせて恵果に会う機会を永遠に失ってしまうようなことがあれば、何のためにはるばる海を越え長安にやって来たのかわからなくなってしまう。とにかく会いに行こう。今、この時しかないのだ。

 真に宗教に帰依したものの直感は、深く宗教的体質を持ち、迸るように真実を求める人間を見分けるのであろう。恵果はこの異国の青年を一目見るなり、これまでに会った誰よりも密教の真髄を理解し得る人物であると思ったようである。

 「和尚乍見含笑歡告曰。我先知汝来相待久矣。今日相見大好大好。報命欲竭無人付法。必須速辧香花入灌頂壇」             (『御請来目録』)

 (和尚はたちまちご覧になるや、笑みを含んで喜び  

に満ち溢れて言われた。私は前からあなたが来るのを知っていて、ずっと待っていた。今日お互いに会うことが出来て本当に良かった。本当に嬉しいことだ。御仏から授かった私の生命はもう尽きようとしているの  に、法を授けて伝えさせる人が未だいない。すぐに  を支度して灌頂壇に入るがいい。)

 

 恵果も密教も空海を裏切らなかった。空海はこの年八〇五年、六月に胎蔵界の、七月に金剛界の、さらに八月十日には伝法阿闍梨位の灌頂を受ける。空海三十二歳の時であった。ここから彼の宗教者としての生涯がはじまる。

 

 翌八〇六年帰国した空海は、十月二十二日の日付で 『御請来目録』を遣唐判官高階遠成に託して上奏を願っているものの、翌年初秋まで一年近く筑紫に残留している。この時期に彼はこれまでの彼自身の思想と恵果から法灯伝授された密教との整合を果たしたのであろうと思われる。彼はその思想をひとつの体系としてまとめるために、正式な密教の経論だけでなく多くの大乗経論をも援用した。そのひとつに『大乗起信論』とその註釈書である『釈摩訶衍論』がある。古来より偽撰とされているものの、空海は顕密の教判や十住心の教判においてもこの論書から引用していることは明らかであるし、さらに四種心の思想にも影響を与えている。

 

 私は「識」を知るためにいささかの書物を乱読したのだが、その中で特に魅かれた一冊の書物を告白しておきたい。『意識の形而上学』というのがその題名で、―『大乗起信論』の哲学―とサブタイトルが付けられている。この本が上梓された時、すでに著者、井筒俊彦は彼岸に去っていた。井筒俊彦はイスラム思想の研究において有名であるが、東洋思想についても幾冊かの著作を遺している。私はその著作に触れて、現代においてこれほど深く、しかも自由に東洋思想を論じた人は一人も存在しなかったのではないかと感嘆した。その気宇の壮大さ、縦横無尽の思想の広がり、膨大な資料をもとに論を立て推し進める緻密さ、それは天才とも言え、空海につながるところも多いのだが、ただひとつ大きな違いがある。それは井筒俊彦が言語学者であり哲学者であったのに対し、空海は宗教者であったということである。その違いを指摘するのは後にして、ここではしばらくの間、井筒俊彦の『起信論』哲学に耳を傾けてみたい。

 

付記

 一九八七年の夏、私はふとしたことから出会った「絶対有」という言葉に魅かれて、「密教」なるものを知りたいと思った。「知りたい」と思うことは私にとって「読む」こと、そして「書く」ことにつながるのだが、『理趣経』『大日経』『大日経疏』と読み進むにつれて、さらに空海そのひとを知りたいと思うようになった。その結果生まれたのが、「季」五十一号から五十六号まで一年半に渉って書き続けた拙論「空海」であった。この日本史上(否、世界史上と言ってもいい。)稀に見る天才を偉大な山にたとえるならば、その時書いた拙論は麓に佇みその山を見上げただけのようなものだった。この十年間、私はその山のまわりをひたすら歩き続けていた。 しかし今再び空海の思想をさらに知りたいと思い、無謀にもこの山に分け入りたいと考えるようになった。最近、井筒俊彦氏の東洋哲学に関する著作を読み、さらにその思いを深くした。というのは井筒氏は「華厳」までの哲学には詳細に言及されておられるが、密教にはいまだ深く踏み込んではおられなかったからである。このやはり天才とも言える碩学に、なぜもっと時間が残されていなかったのかと無念の思いで一杯であるが、(そうすれば井筒氏のお力を借りて居ながらにしてこの偉大な山を俯瞰することが出来たであろうに。)それゆえにこそ覚束ない足取りでも自力でこの山に踏み込まねばと考えるようになったのかもしれない。おそらく生きている間に頂上に辿りつくことなど決してあるまいと思われるが、どの道に踏み迷うか知れないままに、時には見知らぬ花や小鳥に出会えるかもしれないという期待もある。この小論を書き始める所以である。

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