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​ 第三章 少年時代

 当時の讃岐國の中心は現在の讃岐府中駅の周辺にあった。当初の予定では丸一日かけてゆっくり讃岐國府跡の全貌を見たいと思っていたが、目覚めると既に雨。それも集中豪雨になりかねない天候である。予定を変更して午前中で切り上げることにして、とりあえず讃岐國府跡を見に行くことにする。

 前夜宿泊した丸亀を出て、国道11号線をひたすら東へ進み、予讃線の踏切を越え、線路沿いに駅の手前まで来て、善通寺の方へ再び引き返す。すぐに「埋蔵文化センター」の表示を見つけ右折して小さな橋を渡る。資料によるとここからすぐに右手の田圃の中に国府跡が見えるはずなのだが、建物が立っているせいか、全く何も見つからない。暫く車を走らせ、これ以上行くと遠ざかるだけだと思って、一旦道の端に寄せて停車する。

 位置を確かめるために車から降りると、すぐ後の道の角を入ったところに小さな石碑が建っている。近づいてよく見ると、崇徳天皇が都からこの讃岐に流されて、住んでおられた時に使われた泉水の跡で、「内裏泉」と彫られている。暫く眺めた後に、その細い道をもう少し進み、さっき来た道に再び戻って、同じコースを辿り、再び最初の橋のところまで戻る。今度は見落とさないようにゆっくり進むと、川を渡ってすぐのところに、手書きで「府庁跡への近道」と矢印が出ているのを見つけ、右折して進むと、田圃の中を細い道がどこまでも続いている。途中までそのまま車を走らせていたが、これまでの舗装した道が途切れ、地道になってしばらくすると墓地に辿り着く。田圃の真中で見晴らしの良いところだったので、車から降りて辺りを見ると、左手のはるか向こうに白い木の道標が見える。何本かの舗装された道があって、国府跡と見られるところまで続いてはいるがかなり細く、このまま進んだらもしかして通れなくなった時、引き返せなくなるかもしれないと思い、あきらめてそこからは徒歩で行くことにする。

 傘を差して一人で歩いて行くと辺りは一面田植えが終わったばかりの田圃である。城山がなだらかな美しい姿を水田に映している。ようやく讃岐国府跡と書かれ、石積みで囲われた石碑の立つ場所に辿り着く。今はかなり発掘調査が進んでいて、この地域に国府としてのさまざまな機能を持つ建物が散在していたことが明らかになっている。横に立てられた木の板に、その配置図が書かれている。

 その中に「聖堂」と書かれているのが、その当時、「国学」と呼ばれた地方の教育機関である。七〇一年に制定された「大宝律令」によって、中央には本科と数学科からなる中央の官僚養成機関である「大学(大学寮)」が置かれ、地方には国毎に、郡司の師弟を教育する地方の官僚養成期間である「国学」が置かれた。いずれも身分や年齢による入学制限があった。

 少年真魚はおそらく十三歳の頃にこの「国学」に入学したと思われる。あるいは入学しないまでも、それに近い勉学を習得したに違いない。年譜には誕生の時から十五歳までは全く空白であるが、『御遺告』に「爰外戚舅阿刀大足大夫等曰。縦爲佛弟子不如出大學令習文書立身。任此教言受俗典少書等及史傳兼學文章。」(ここに母方の親戚で伯父に当る阿刀大足などが、「たとえ(夢にみたように)いずれ仏の弟子になるかも知れないが、大学に入って世俗の学問の書物を学び、身を立てるようにさせるのが最上である」と勧めた。そのすすめにしたがって世俗のいくらかの書物などや史伝について教えを受け、同時に文章についても学んだ。)と書かれている。いかに真魚が神童と呼ばれた少年であったとしても、入京する十五歳までにこれだけのことを学ぶには、とても一年では足りないと思われる。また、阿刀大足から個人的に学んだとしても、それは善通寺のある多度津近辺ではなく、さまざまな学問の書物や、人材の集積された讃岐国府の近くでなければならなかった。

 話は遡るが、ずっと以前に、この「空海を巡る旅」を計画していることを、今は亡き村岡空師にお話したことがあった。その時、村岡師は私が列挙した場所の他に、「是非行って見なさい。」と、満濃池ともう一つ、ある神社の名を挙げられた。多分その時、「空海のお母さんの実家があったところ」という言葉を使われたと思う。実際に行くことになったら、もう一度詳しく伺うつもりで、もう何年も歳月が経ち、メモを取ったかどうかも定かではなくなって、当のご本人も既に彼岸に旅立ってしまわれた。今回、旅に出る前にそのことを思い出し、私は朧な記憶を手繰り寄せるべく、さまざまな本や地図、さらにはネットをも駆使して、何とか目的地に辿り着こうと試みた。その話を伺ったすぐ後に、一度だけ地図上で探したことがあったような気がして、何となく、屋島だったか、五色台だったか、近くにあったような・・・ということだけを頼りに、香川県内の神社を片っ端から調べてみた。

 何日かの後、その中の神社の縁起を調べていて、思いもかけぬ言葉が飛び込んできた。「創祀年代は不詳。社傳によると、神谷に自然に出現した僧侶によって祀られた社だという。その後、嵯峨天皇弘仁三年に、弘法大師の伯父・阿刀大足によって社殿が造営され、春日神を配祀されたという。」

 「これだ!」と私は心の中で叫んでいた。地図を見て確認する。讃岐国府跡から真北に3㎞のところである。白峯寺のある白峰山の麓で、五色台はそこからさらに北東に当る。

 当然のことながら、今回のコースにこの神社を入れていた。大雨のなか国道11号線を暫く進んだ後、五色台の方へ向かう道に入り、神谷町の信号のところでさらに細い道へ入る。小さな橋を渡ってすぐに右折すると、石の鳥居が見える。神社の参道である。そこからさらに東へ真っ直ぐ進むと境内の石の鳥居の向こうに朱塗りの神殿が見える。鎌倉時代の建造物で国宝であると書かれている。資料には創祀年代不詳とあったので、もしかして平安朝の建築物が遺っているのでは、という期待ははずれたが・・・。本殿は鎌倉初期に建築された三間社流れ造りで、当初のままに現存し、建築年代の明らかな社殿としては我が国最古のものであるという。しかし肝心の本殿は、朱塗りの社殿の奥に位置するのでよく見ることが出来ない。一旦境内を出て、裏に回ることにする。社前広場の左側には七重層塔が二基建っていて、塔身には仏像形と梵字が彫られている。横手に回ると社殿の塀の外に細く背の低い六角の石塔が立っている。その前にも石の鳥居がある。これも鎌倉末期のもので経塔と考えられるという。いずれも元はこの社の神宮寺であった清瀧寺のものだという。

 社殿の後ろに回ると土塀の周りは鬱蒼とした森である。ここでも樟の大樹が目に付く。地面はびっしりと春の落葉に覆われている。所々に小さな塔のように石が積まれている。大きな岩もある。そこからさらに山道を50mほど登ると、神谷川の側に巨巌がある。古代神谷神社が建立されるまでは、この巌が神の依代として祀られたで、古代祭祀の址であるという。

 由緒書を見ると「神谷神社の創祀は、太古、神々がこの渓谷に集い遊んだところからこの地を神谷と言い、また自然居士なる人がこの川淵に忽然と現われ、傍の対岸を祭壇として天津神を祀ったと傳えられているが、この付近からは弥生時代の石 ・石斧・土器などが出土し、神社の裏には影向石と呼ばれる磐座があって、その祭祀が古代に創ることを物語っている。」と書かれている。

 この神谷神社の他にもう一つ、鴨神社という神社が予讃線鴨川駅からほんの少し東側に存在する。現在では香川県坂出市加茂町という地名になっているが、神谷神社の真南にあたり、五夜嶽、烏帽子山の麓である。現在は東鴨神社、西鴨神社の二社に分かれているが、当初からそうであったのかどうか。このうち東鴨神社(香川県坂出市加茂町九九二)は、社伝によると弘仁四(八一三)年、空海の伯父、阿刀大足が大和国高鴨社を勧請したと言われている。当時は大明神原という場所に鎮座していたが、焼失により現在地に遷座したという。もとは葛城社とも呼ばれ、玉依姫命を祀っている。もう一方の西鴨神社の方は、天平年間、時の国司藤原景高が、雷雨洪水の害を除くため、賀茂別雷神を勧請したものという。現在でも東鴨神     

社の辺りは鴨庄と呼ばれている。

 

 阿刀大足とはいかなる人物であったのだろうか。村岡空師はその著作「優波塞仏教と空海」(『弘法大師空海―密教と日本人』第四章 和歌森太郎編著 遊渾社 一九七三)のなかで、空海の父の出自である佐伯氏と、母の出自である阿刀氏のことを詳らかに述べている。それによると「空海の父方の先祖は大伴氏系ではあるが、厳密に言えば蝦夷人であり、」母方は「物部氏系の阿刀氏」であり、「大伴・物部、大伴・佐伯部という両氏族の対立の歴史からすれば、皮肉にも敵方との婚姻関係が二重三重に結ばれて来た」のであり、さらに「こうした血脈があったればこそ、人間空海の重層的な性格の曼荼羅構造が生まれたとも言えるのではないだろうか。」と結ばれている。まことに興味深い指摘である。

『続日本紀』に「承和二年三月庚午、  法師者、 年十五、就舅従五位下阿刀宿禰大足讀習文書」と、また『三教指帰』の序文に「余年志學、就外氏阿二千石文學舅、伏膺鑚仰」と書かれているように、空海にとってはこの母方の伯父、阿刀宿禰大足が、最初の学業の師であった。先に述べた阿野郡鴨部郷に領地を持っており、その近辺にその住まいがあったものと思われる。おそらく就学前の空海も、善通寺のあたりから幾度もそこに通い、あるいは滞在し、この伯父から「文書を読み習った」のであろう。『文鏡秘府論』に「貧道幼就表舅、頗學藻麗、長入西秦、粗聴餘論、雖然志篤禅黙不屑此事」とあるのが、この頃のことと思われる。

 

 ここからは幻想あるいは妄想である。もしくは筆者の創作だと思って頂いてもよい。この辺りに阿刀氏の広大な屋敷があり、少年真魚が伯父阿刀大足から学業を学ぶために滞在していた。生家のある多度郡の辺りの山々を、すでに幼年の時から駆け回っていた真魚にとって、山野は親しい友であった。北を眺めれば白峯山、南には五夜嶽、烏帽子山が連なっていた。国府までの行き帰りを、真魚は平坦な道だけではなく、時にはこの山の尾根伝いに歩くこともあった。烏帽子山を降りて少し西南に下るとそこはもう国府であった。

 その途中の道には沢山の巨石の群れがあった。そのなかでも殊に大きな石が目を引いた。磐座であった。時にはその磐座の上で異様な風体の男に遭遇することもあった。一人の優婆塞が一心不乱に天神地祇を祀っていたのだ。昼でもなお薄暗い森の奥の光景は、少年の心の奥底に言い知れぬ謎を植え付けた。そのあたりは神楽谷と呼ばれていた。谷を流れる川は讃岐岩の硬く黒い肌から湧き出でていた。その磐を叩くと、あたりの森や谷に音が広がり、遠くまで透明な響きが広がった。

 白峯山から五色台(国分台)にかけては日本でも有数の讃岐岩(安山岩=サヌカイト)の産地である。神谷神社の境内の裏の森のなかの石の群れや、由緒書に記載されている「影向石」と呼ばれる磐座も、サヌカイトの一種であったのであろう。

 ひとりの人間の十五歳前後の頃の心や精神の在り様は、おそらく一生に通じるものがあるのではないだろうか。最も感じ易く、最も柔らかな魂の所在。限りなく可能性を秘め、限りなく感受性に富み、けれど同時に限りなく脆く傷つき易い、孵化して間もない雛のような心の苫屋。この頃の、眼で見て、耳で聴き、五感で触れたすべてのものが、サヌカイトの音のように心の奥底、魂の深遠にまで響き渡っていたことに、少年真魚が気づくまでには、まだかなりの歳月が必要なのであった。

 阿刀大足は桓武天皇の長子である皇子伊予親王の學士であったため、ずっと讃岐にいるわけにはいかなかった。『御遺告』に「然後及干年十五入京」と書かれているように、真魚もまたこの伯父についてさらに勉学に励み、大学寮への入学準備のため、都へ上ることになる。『続日本紀』に「延暦三年十一月、戊申、天皇移幸長岡宮」とあるように、この頃の都は長岡京にあった。近年、大極殿を中心とする朝堂院と呼ばれる建物群や大蔵省などの配置が、発掘調査によって次第に分り始めて来ていて、従来、未完の都であったと言われていた説が疑問視されているという。しかし延暦二年に発布された太政官符によると、新たに寺院の建設は一切なされていない。したがって多くの寺社や学問の機関は、たとえ都が移されたとしても、以前として平城京にあったものと思われる。

真魚が讃岐を発って最初に着いたところが長岡京であったか、平城京であったかを判断する資料は残されていない。『三國傳記』に「和云、御年志學、延暦七年、舅氏伴家郷出花洛入、」と書かれているが、その他の文書においても、同じような記述がなされているに過ぎない。しかしこれまで当然ながら奈良にあったと思われる、伯父阿刀宿禰大足の屋敷に滞在していたと考えるのが妥当であろう。その屋敷の所在も明らかにはされていないが、佐伯一族の長であり、出世頭であった佐伯今毛人が当時の政権の一翼を担っていたことから、平城京あるいは長岡京でも下京の一部にその館があったものと思われ、真魚は一族の佐伯氏を頼ってその館の一部に住んでいたとも考えられる。

 

角田文衛著『佐伯今毛人』(吉川弘文館・昭和三八年)は、「桓武天皇の延暦九年(七九〇)の十月三日、散位の正三位佐伯宿禰今毛人が薨去した。」ところから始まっている。「佐伯宿禰は、名門の大伴宿禰の支流であり、古来、大伴氏とならび称された武門であった。〈中略〉佐伯部は、五‐六世紀のころ大和国家の特別な征討によって捕虜となった蝦夷であったようである。彼らは、佐伯部という名を帯びた隷民(半自由民)とされた上で、播磨・讃岐・阿波・安芸などにそれぞれ配置され、その国の国造(自治的小国家の王)の支配に委ねられたのである。佐伯部を領するため、これらの国造気は佐伯直という姓を帯びるようになった。弘法大師などは、讃岐の佐伯直の出身なのである。そして中央政府にあって、これら諸国の佐伯直を統率する職掌をもっていたのは、すなわち佐伯連であった。そして佐伯連は、天武天皇の十三年(六八四)の四月、大伴連とともに、宿禰の姓を授けられ、佐伯宿禰となったのである。」

大伴・佐伯両氏の人々は、大化改新後、藤原氏の進出により、その勢力の後退を余儀なくされた。しかし天平九年における天然痘の流行により、藤原氏の四兄弟がすべて薨去し、藤原氏の勢力は急速に後退した。これにより聖武天皇の親政が初めて可能となり、新たに橘宿禰諸兄の政権が樹立した。この頃、聖武天皇は全国の国分寺を改組・発展させて金光明寺・法華寺を造営しようという壮大なプランを抱き、天平十二年二月には、中央の金光明寺に盧舎那仏の虚像を造顕しようと発願された。『続日本紀』(延暦九年十月三日条)には次のように書かれている。

「天平十五年、聖武皇帝、願ひを発して始めて東大寺を建てんとし、百姓を徴し発たして、まさに労作を事とす。今毛人、ために催撿を領し、頗る方便をもつて役民を勤め使ふ。聖武皇帝、その幹勇を録して殊にこれを任使せり。」(原漢文)

しかし事業はなかなか思うように捗らなかった。紆余曲折の後、天平十八年三月五日には大倭金光明寺造営のための人事が発令され、今毛人は少掾に任命された。今毛人が造営事業に精魂を打ち込んだことは『延暦僧録』(第四)にも書かれている。

「平城の後の太上天皇(聖武)、東大寺を造らんとするや、(今毛人を)差はして別当造寺官となす。常に斎戒を持す。天皇、名づけて「東の大居士」となす。」

この書には今毛人の住居の所在地を推定し、次のように書かれている。

「現在、造東大寺司の遺址は明らかでないが、その名は、雑司町の名で遺っており、位置に関して大体の見当はつくのである。すなわち、一条南大路をまっすぐに東に行くと、東大寺の西北大門(佐保路門、現在は転害門)につきあたる。この門をはいって左手の地域で、正倉院までの間に造東大寺司の建物があったと推定されるのである。これから憶測すると、十一年間にわたって右の宮司に勤めた今毛人の自宅は、左京一条七坊に、つまり役所に最も近い市街地の、佐保川のほとりの辺にあったのかもしれない。」

 古文書によると勝宝四年四月の造東大寺司の幹部には「次官 正五位上佐伯宿禰今毛人(兼下総員外介)」と同時に、「主典 従七位上阿刀連酒主」の名も見える。この阿刀氏が真魚の伯父、阿刀大足とかかわりのある人物であったかどうかは定かではない。しかしここで阿刀氏もまた造東大寺司の幹部であったことを見ると、その住居も佐伯氏の館の近くにあったと思われる。

 

この書物を読み進むうちに、筆者は数々の興味深い事柄に遭遇した。そのうちの一つは『正倉院文書』に書かれていたという「造東大寺司沙金奉請文」である。ここには「造東大寺司長官佐伯宿禰 今毛人」の署名も見られる。

天平感宝元年閏五月、聖武天皇は、大安寺以下の五大寺に、墾田地各百町を施入されたという(『続紀』)。東大寺は、越前国の足羽郡・坂井郡・丹生郡において墾田地を給された。(古文書)越前平野でとれた米は三国湊に集荷され、船で敦賀に運ばれる。北陸道、愛発関、近江国浅井郡の塩津郷を経由し、、船で琵琶湖を縦断して、志賀郡の粟津市に至り、瀬田川を下り、石山寺の前を通って山脊国の宇治、木津を経て、奈良山を越えると平城京なのだという。

しかし元々、越前平野は洪積世には港湾の海底であり、天平時代には一面の沼沢地(葦原)であったという。造東大寺司は越前平野の開発事業も行わなければならなかったのである。その頃の造東大寺司には、史生として第初位上生江臣東人、写経所の舎人として安都宿禰雄足などがいた(古文書)。次官の今毛人は、東人をその出身地である越前国足羽郡の大領とし、雄足を越前国史生となした。この雄足が、名前からすると真魚の伯父、阿刀大足であったとも十分考えられる。今毛人も幾度も現地を訪れたことであろう。

 

全くの余談であり、私事にかかわることであるが、筆者の父(既に故人)の出生地はこの越前丹生郡であった。彼は休日になると時折、当時住んでいた大阪の家から一人で奈良や吉野を訪ね歩いて、何か一人で調べていた時期があった。調べていたことが何であったのか今となっては謎のままなのだが、この件を読んだ時、「ああ、このことだったのだな。」と思い当たるような気がして、父が生前、東大寺の元管長、清水光照師と親しく頻繁に語り合っていたことも、それ故だったのではないかと思われた。何十年も経て内容には隔たりがあるにせよ、歴史の彼方の同じ時、同じ場所を筆者もまた訪ね歩いているのかと思うと感慨深いものがある。

 

さて話を元に戻そう。勝宝六年、鑑真が東大寺に入り、今毛人は次官として鑑真一行を接待したばかりでなく、戒壇院や唐禅院の建立に携わり、さらに陵墓の築造にも参与する。しかし聖武天皇の崩御後、藤原仲麻呂が権力の座に就き、今毛人は大宰府の「営城監」に任命される。三年後の神護元年に彼は再び造西大寺長官に転補され、平城京に戻って来る。同年八月、今毛人は太政官左辦官局の長寛である左大辦を命じられ、実に十年二カ月に及ぶ任期を勤め上げるのである。さらに遣唐使に任じられながらも入唐を中止し、太宰大弐、左大辦への再任を経て、ようやく従三位に、さらに参議に任じられる。彼は左大辦兼大和守県皇后大夫でもあった。延暦三年十一月十一日、桓武天皇は長岡京に移られたが、皇后は平城京に留まられ、翌年新京に赴かれた。今毛人はおそらくこの時に長岡京に移ったと思われる。延暦八年(七八九)正月九日、今毛人は上表して致仕(七十歳以上に達しての退任)を願い出て許される。その時から延暦九年の薨去の時まで、彼が長岡京に住んでいたか、あるいは平城京か、定かではない。参議を辞してもその職封の半分は引き続いて支給された。彼はそれらをほとんど、佐伯院(正式には香積寺)の建立に注ぎ込んだ。

「東大居士伝」(『延暦僧録』第五)には「得る所の官禄は、二分にて経を写し、先に国恩に報い、後に品類を霑し、いまだ自身・六親・知故に及ばず」(原漢文)と記されている。受けた官禄の八割を佐伯氏のために使用したという意味である。そのほとんどが佐伯院の建立の資金であったと思われる。大伴氏が氏寺として大伴寺(永隆寺)を持つように、佐伯氏も氏寺を持ちたいというのが、真守と今毛人の兄弟の悲願だった。

「宝亀七年(七七六)の「佐伯宿禰今毛人・同真守連署送銭文」(『古文書』)と延喜五年(九〇五)の「佐伯院付属状」(『平安遺文』))によると、宝亀七年の初め、佐伯兄弟は、勅許を得て東大寺から一町二反一二四歩の土地を購入し、ここを彼らの氏寺の敷地としたのである(『平安遺文』)。東大寺から購入した分は、実は天平勝宝八歳(七五六)六月十二日に、東大寺に直施入された土地である。その施入の勅書(『古文書』)には、

   五条六坊園 葛木寺以東

    地肆坊 坊別一町二段(百)廿四歩

     四至 東少道、南大道、西少道 葛城寺、

北少道 大安寺薗、

と記入されている。この勅書には、勝宝九歳正月四日に左京職が勘注した絵図が添えられており、その土地の所在を明確にすること ができるのである。」

と書かれている。

「東少道」は五条七坊の一・二・三・四の坪の東を通る小路、「南は大道」は五条大路、「西少道 葛木寺」は、五条六坊の六の坪と十一坪の間を南北に走る小路と、五坪にあった葛城寺とを示すものである。「北少道 大安寺薗」は、東西に走る小路と、五条六坊十四坪にあった大安寺の井薗(井戸のある園地)をさしている。

 

 まだ早春の頃、所要があって奈良町のカフェへ出かけることがあった。かつてそこは元興寺の講堂があった場所であったという。現在残っている元興寺よりもはるかに大きな寺院であったということを念頭において、当時の平城京の復元した地図と現在の奈良の地図を比べながら、この辺りを歩いて見た。

「佐伯院は、奈良市木辻町西辺に位置していたことは確かである」という言葉を頼りに、平城京図によると当時の佐伯院は元興寺の隣ということになるので、奈良町を南に下り、ひっそりと咲いている紅梅の香る元興寺小塔院跡を通り抜け、その通りをさらに南へ歩き、そこから西へと進む。

 

 観光地と化しているのは奈良町のほんの一角だけで、そこを過ぎると下町の雰囲気の古い家が続き、広い道路に面して、それほど大きくはないマンションやビルディングや店舗などが立ち並ぶ一画が、かつての佐伯院のあった場所だと思われるのだが、往時の面影を偲ぶようなものはかけらも残っていない。それでも西に傾いた日差しを浴びながら、空想の中で、十五歳の少年真魚が、一族の氏寺としてようやく建立された佐伯院香積寺の境内に初めて立ち、遠い目で未来を思っていた姿を思い浮かべるよりほかなかったのである。                       

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​ 2007年の夏、東大寺の万燈供養会に参列する前日、平城宮跡資料館を訪れた。これまで長岡京遷都の後、平城宮はそのまま残されたのだとばかり思っていたが、そうではなく、平城宮の建築物を取り壊して運び、新都の建造物に用いたのだという。おそらく遷都後の平城京の荒廃は想像を絶するものがあったと思われる。

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 真魚が讃岐から叔父に伴われて入京した都が、長岡京だったとしても、大学寮が未だに平城京にあったと考えられる以上、住まいを平城京の近くに定めたものと思われるので、旧都に移ってそんなに日が経たないうちに、真魚もまた平城宮を見に行ったことだろう。荒れ放題のかつての都の夢のあとを見て、少年の心はどのように傷んだことか。

 その一方で東大寺や興福寺・春日大社の壮大さを見て、言葉には言い表わし得ない矛盾もまた感じたであろう。しかもその東大寺の建築に携わったのは一族の長である佐伯今毛人であった。

 思えば真魚(空海)は、人生のスタートにおいて既に、幾重にも複雑に織り成された社会や政治の様相を、目の当りにしなければならなかったのだ。とはいえ今はただ大学寮の受験のために励まなければならない時期だった。それらが柔らかな感じ易い少年の心に深く影響を与えたとしても、とりあえず今は周囲の状況を見るいとまもなく、ただ一途に勉学に邁進するのみであった。

 

 三年間の勉学期間の後、真魚は当時の大学寮明経科へ進学する。『日本紀略』には次のように書かれている。

 

    延暦十年辛未

 是歳、大師、大學明經ノ科試ニ及第シ、大學博士岡田牛養ニ春秋左氏傳等ヲ、直講味酒浄成ニ五經等ヲ學ブ、

 

 平城京のどこに大學寮があったのか、未だに明らかではない。これまでも大極殿をはじめ、発掘・復元作業が進んでいるので、近い将来にその場所を確定できることを期待している。

 平安京の大學寮址は確定されていて、朱雀大路の東、二条大路の南、三条坊門小路の北に当たる四町の区域を占めていたという。たとえばこれを平城京の地図上に置いてみれば、朱雀門を出てすぐ、国道一号線から現在の奈良のメインストリートである大宮通に至るまでのどこか、あるいは二条大路南一の交差点から三条大路二の交差点の間辺りなのか、様々に想像は膨らんでゆく。ともかくもここがこれからの真魚の日々の生活の中心となるのであった。

 しかし大学寮での真魚の生活がどのようなものであったか、これ以上の記載は当時の書物にはない。

 

空海の著書『三教指帰』の中には次のように書かれている。

 

  余年志學。就外氏阿二千石文學舅。伏膺鑚仰。二九遊聴槐市。拉雪螢於猶怠。怒縄錐之不勤。爰有一沙門。呈余虛空蔵聞持法。其経説。若人依法誦此真言一百万遍。卽得一切教法文義暗記於焉信大聖之誠言。

  (私は十五歳になった年、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)、禄は二千石で親王の侍講(じこう)であった人につき従って、学問にはげみ研鑽(けんさん)を重ねた。十八歳で大学に遊学し、雪の明りや蛍の光で書物を読んだ古人の努力を思い、まだ怠っている自分を鞭打ち、首に縄を掛け、股に錐を刺して眠りを防いだ人ほどに勤めない自分をはげました。

ここにひとりの修行僧がいて、私に「虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法」を教えてくれた。この法を説いた経典によれば、「もし人が、

この経典が教えるとおりに虚空蔵菩薩の真言を百万回となえたならば、ただちにすべての経典の文句を暗記し、意味内容を理解することができる」という。)

 

 確かにここには極限まで精励刻苦した、大学寮進学前後の真魚の姿が書かれている。しかし大学寮で学んだ内容については一言も書かれていない。そればかりか唐突に「虚空蔵求聞持法」という言葉が現れる。

 

 しかし『御遺告』には次のように書かれている。

 

  然後及于生年十五入京(ジュケイ)。初逢石渕(イワブチノ)贈僧正大師受大虚空蔵等幷能満虚空蔵法呂(リヨ)入心念持。後經(ケイ)遊大學従直(チヨク)講味酒浄成(アチサケノキヨナリ)讀(ヨ)毛詩(シ)左傳尚書。復問左氏春秋■岡田博士。博覧經史専好佛經。恒思我之所習上古俗教眼前都無利弼(ヒツ)。矧(イハムヤ)一期之後此風已(ステ)止(ミナム)。不如仰真福田。

  (このようにして、十五歳になったときに都にのぼり、そこではじめて岩淵(いわぶち)の僧正の位を贈られた勤操(ごんぞう)という偉大な師にお目にかかり、大虚空蔵(だいこくうぞう)などの法や能満(のうまん)虚空蔵(こくうぞう)の究極の法を授かり、一心に真言の念誦、受持につとめた。

   のちに大学に入って、直講(じきこう)(博士を補佐し経書を講義する者)の味酒浄成(うまさけのきよなり)について『詩経』や『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』『尚書(しょうしょ)』を読み、『左氏春秋』を岡田(おかだ)牛養(うしかい)という博士に学んだ。ひろく儒教の経書や史書を読んではみたが、おもに仏教の経典を好んだ。つねづね、自分がいま学んでいるところの古い昔からの世俗の教え、(儒教)は、目前のことについてはなんら役に立つところがないように思っていた。死後はそれによって影響されるところがないであろう。真の福田(ふくでん)(福徳を生み出す田)である、仏を信仰するのが最高である、と。)

 

 さらに『空海僧都(そうず)伝』にも次のような記載がある。

 

  年始めて十五にして、外舅(をぢ)二千石阿刀大足(あとのおおたり)に随(したが)ひて、『論語』『孝経(かうきょう)』及び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき。

  入京の時、大学に遊び、直講(ぢきかう)味酒浄成(うまざけのきよなり)に就いて、『毛詩(もうし)』・『尚書(しやうしよ)』を読み、『左氏(さし)春秋(しゆんじう)』を岡田博士に問ふ。

  (十五歳になったときは、母方のおじ、阿刀大足について『論語』・『孝経』をはじめ、歴史や伝記など  の手ほどきを受け、文章(もんじよう)を学んだ。

  上京して大学に入り、直講の味酒浄成について『毛詩』(『詩経』)と『尚書』(『書経』)とを読み、『左氏春秋』(『左氏春秋伝』)を岡田牛養博士に習った。

 

 いずれも時を経た後の記述であり、空海自身が書いたものではない。しかし十分に真魚の当時の姿を映し出している。

 忘れてはならない。この少年にはそもそも七歳の時に既に、衆生済度の願いをかけて断崖から身を投げたという伝説が残されているのである。

 『御遺告』に書かれていることが事実だとすると、真魚は大学寮に入学する前に勤操に出会っていたことになる。もしかすると伯父の阿刀大足の思惑とは別に、都に上ることによって、仏道の良き師に巡り合えるかもしれないと、真魚は密かに考えていたのかもしれない。

 当時の大學寮では、明経道(儒教)、算道(数学)、音道(中国語の発音)、書道、明法道(法学)、紀伝道(史学)、及び文章道が中心であった。それらはいずれも世間を渡るための、いわばこの世の学問であった。そこでは生死の問題は取り上げられなかった。仏道を志す少年にとっては、それらは生きていく術になったとしても、到底生きる目的にはなり得なかった。

 真魚がもし佐伯院、あるいはその近くに住んでいたとすれば、元興寺は隣り合わせであり、大安寺もまた大学寮へ行く道の途中であった。当然のことながら早い時期にこれらの寺院を訪れたものと思われる。

 

 元興寺は蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)が、養老二(七一八)年に新京に移されたものである。法興寺(飛鳥寺)は三論・法相の両学派が最初に伝えられたところであり、都が移ったのちも、依然として東大寺に次ぐ位置を与えられていた。天平勝宝元(七四九)年に墾田の地限が定められた時には、東大寺の四千町歩に対し、元興寺は二千町歩、大安・薬師・興福寺は一千町歩であったという。

 現在は寺の面影を残すのは奈良町の中にひっそりと佇む元興寺極楽坊のみであり、小塔院は僅かな境内を残すのみである。

 元興寺極楽坊の残されている極楽堂と禅室の屋根の行基葺瓦には、飛鳥時代創建の法興寺の瓦が未だに混じっていると言われている。

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 唐に渡って玄奘三蔵について学んだ道昭が六六〇年帰朝し、元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。道昭は各地を行脚し、井戸を掘り、橋を架け、舟着き場を作って社会事業を指導したことでも知られている。その後を継ぐのがやはり唐で学んだ智通、智達であり、さらに興福寺を中心に普及した智鳳がいる。この智鳳に学んだのが義淵である。義淵は大和国高市郡の出身で、阿刀氏であるという。

その門下に行基、良弁や神叡がいる。

 一方、大安寺は六三九年、聖徳太子の委託を受けた形で田村皇子が舒明天皇となったのち、熊凝精舎を百済川の畔に移して百済大寺とした。その後、六七三年天武天皇の命により香具山の南に移し、高市大寺となり、さらに大官大寺と改称された。平城京遷都に伴い、移築されて、七四五年、大安寺と再び改称された。この移建は長安の西明寺に留学した道慈によって指導され、西明寺を模して造られた。大安寺式と呼ばれる壮大な伽藍であったという。国家鎮護の寺として、また東大寺開眼供養を司った、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)、唐の僧道■(せん)やベトナム僧仏哲なども止宿し、国際的な色調をも帯びていた。

            

 初秋のある日、この大安寺を訪れた。現在の門は、昔の南大門があった場所に建てられている。門を入ると中門跡の石碑が建っている。往時を偲ぶものは今はもう何も残っていない。近来、発掘調査が進み、現在の境内の南には東塔と西塔の跡が残っており、いずれも60メートルを越える巨大な塔であったと推測されている。平城京の朱雀門を出て朱雀大路を南にまっすぐ下がってくると、この大寺の威容が目に映ったことであろう。大学寮を出て佐伯院へと向かう道の途中、この塔を仰ぎ見ながら歩く真魚の姿を想像すると、彼の仏教への憧憬のようなものも伝わってくるような気がする。

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 道慈は三論に精通し、「金光明最勝王経」「虚空蔵求聞持法」をもたらし、養老三年には神叡とともに食封五十戸を賜っている。後に空海を出家させた剃髪の師と言われる勤操は十二歳で大安寺に入門し、二十三歳の頃、具足戒を受け、善議大徳に師事し三論の奥義を授けられたという。最澄もまた若年の頃、この大安寺で修行したという。空海は八二九年、この大安寺の別当に就任している。

 

 三論とは龍樹の「中論」、「十二門論」、と龍樹の弟子、提婆(だいば)の「百論」を指し、この三論を拠り所として大乗の空(くう)思想の徹底を説くのが三論宗である。一方、法相宗は、インド唯識思想の代表的経典「解深(げじん)密経」、「成唯識論」などを典拠とし、一切存在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶(あらや)識(しき)以外に何物も実在しないと説く。 

ここでは敢えて辞書的な説明のみに留めておく。

 

 さらにここでもう一つ、桓武天皇が唐突に思えるほど、いきなり遷都を敢行したことを考えてみたい。

 戦前の著名な歴史学者喜田(きだ)貞(さだ)吉(きち)は、我が国の古代宮都研究の先駆けとなった名著『帝都』のなかで、「桓武天皇の長岡遷都は、歴史上もつとも解すべからざる現象のひとつである。」と書いている。

 この長岡京遷都の理由として、(一)水陸の便が優れていること、(二)奈良の旧勢力の影響から逃れるため、(三)南都の寺院勢力が政治に口を挟むことを嫌ったため、(四)渡来人の協力を得るため、(五)天武系から天智系へと天意によって新たな王朝がスタートするため、(六)怨霊から逃れるため、などの諸説が唱えられてきた。確かにこれらの原因が複雑に絡み合って遷都へと当時の山部親王(桓武天皇)を突き動かしたに違いない。また、桓武天皇は父である光仁天皇から始まる時代を天智系の王朝と考え、天応元(七八一)年、即位後初めて大極殿に臨んで出した詔で次のように述べている。

「近江の大津の宮に御宇天皇(天智天皇)の初め賜へる法のまにまに受け賜はりて、仕へまつれと仰せ賜ひ授け賜ふ。」

 これらの理由のほかに近年注目されているのは、桓武天皇が道教思想に基づいて天帝の住む天宮を地上に再現しようとしたという考え方である。(『日本の道教遺跡』ほか)

 平城宮祉資料館にも多くの呪符木簡が展示されていたが、この他にも多くの大祓の祭具が出土品の中から発見されており、大祓の神事は道教の影響が大きいとされている。

 長岡京の朱雀大路の中軸線の延長四百メートル東、内裏跡の中軸延長線の西二百メートルに交野山がある。道教思想によると南に朱宮というものがあり、そこは天界に通じているとされた。交野山が長岡京の南にあるのは偶然ではなく、この山を聖なる山として、中国古代の都をモデルとし、道教思想に基づく天界の都をイメージして長岡京を造営したものと思われる。

 また長岡京遷都の日は延暦三(七八四)年十一月十一日。皇后も中宮も伴わず強行された。『続日本紀』には「天皇移幸長岡宮」としか書かれていない。これらの研究書には「甲子朔旦冬至」を意識して定められたものと指摘されている。つまり「甲子」は「革令」の年であり、「朔旦冬至」(十一月十一日が冬至となる)は十九年に一度巡り来る瑞祥の日であり、「甲子朔旦冬至」となると四六一七年に一回しか巡って来ないのだという。しかも山部親王(桓武天皇)は生存中の光仁天皇から天応元(七八一)年に皇位を受け継いでいる。辛酉革命といわれる年であり、この年には天帝が新たに有徳者を選んで天子につける年と言われている。

 このように考えると長岡京に新たな寺院を建設しなかったことも、旧勢力を忌避したことよりも、もっと宗教的な意味を持つのかもしれない。大極殿を取り巻く回廊に囲まれた大極殿院の前に朝堂院という建物があるが、平城宮や平安宮では十二の朝堂があったことが分かっているが、長岡京の場合は八堂院なのだという。道教思想では八という数字が大事にされるのだ。

 この他にも近年さまざまな著書で、当時の道教について述べられているが、とりあえずはこの辺で筆を置く。只一つ明記しなければならないことは、この時代には儒教や仏教と同じくらいに深く、道教もまた広く流布されていたということである。

 

 十月半ば、京都へ行く途中に長岡宮跡に立ち寄った。阪急電鉄で大阪梅田から高槻を過ぎ、京都河原町までの路線の途中に、西向日という各駅停車しか停まらない駅がある。改札口を出るとすぐ前に西向日商店街という文字が見える。商店街と言っても店の数は五、六軒位だろうか。その道をほんの少し北へ歩くと、道の左側に長岡宮朝堂院跡という看板が建っていて、当時の建物の所在地を示す図面も書かれている。現在ではかなり発掘調査が進められ、高槻市の教育委員会によって、少しずつ整備されつつある。

 そこからさらに北へ歩いて行くと、大極殿という名の交差点に出る。その右手前方に緑の茂った地域があり、まず閤(こう)門(もん)跡(大極殿の入口)があり、道を隔てて大極殿跡と小安殿(後殿)跡があり、現在は史跡公園として整備され、「大極殿公園」と呼ばれている。入口に宝憧(ほうどう)跡があり、これは天皇の即位式と元旦にのみ立てられる特別な装飾具であるという。たった十年で廃都となったことを思えば、一年に一回、元旦にのみ用いられたことになる。

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   現在の地名は向日市鶏冠井町となっている。桓武天皇が都を移した十一月十一日に、毎年「大極殿祭」が大極殿遺蹟保存協賛会によって執り行われている。

 

 若年の頃に既に仏道を志していた真魚にとって、叔父阿刀大足に勧められて大学寮に入学したものの、そこで学ぶことは何一つとして心に響くものはなかった。むしろ元興寺や大安寺を訪れ、多くの高僧と出会った時こそ、水を得た魚のように彼は生き生きと輝く眼で、ほんの少しのことさえも聞き漏らすまいと熱心に学び、全身の血を滾らせていたことだろう。それゆえになお、大学寮での学問は日に日に耐え難くなってきたのであろう。当時の政治も学問の世界もほとんどすべて唐に倣って儒教を中心としたものだった。

 それに反し、当時の仏教は、現代のような葬儀を執り行うための宗教ではなかった。儒教がいわば、この世の生き方の術を身につけるのが目的だとすれば、仏教は生とは何かを考え、その生において、いかに生きるべきかを考えることが目的だったと言える。特に興福寺・薬師寺を大本山とする法相宗、元興寺の三論宗は、いずれも識のほかにはすべての事物的存在を否定する「唯識」に依拠していた。

 

 唐突にも思える平城京から長岡京への遷都にあたって、当時の民の労苦や疲弊を、真魚はどのような思いで眺めていたのだろうか。何の疑問もなくただ日々の暮らしを易々として過ごすには、彼は余りにも純粋であり、深く考えざるを得ない性癖を持っていたと言える。そしてある日突然、彼は大学寮からも、平城(なら)の都からも姿を消すのである。

 もし現代に真魚が生きていたなら、もっと複雑な多種多様な価値観をいかに解釈し、取捨選択し、選び取って行ったのだろうか。そのことを思うと興味が尽きないのであるが、この時代、彼が呈示されたのは先に述べた三者であった。もっと深く熟考し、学ぶために、彼は大学寮を放棄し、どこへともなく旅立つのである。そして最終的に彼がとった手段は、この三者を比較しながら、自らの思想をまとめ、披歴することであった。しかし初めての著書『聾瞽指帰』を著わすまで、未だ四年余りの歳月を待たねばならなかった。         

 

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