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第六章 帰国と太宰府時代

 大同元年、空海は高階遠成等と明州を発し、帰途に着く。『大師御行状集記』によると

 

 「唐、元年 當ル 日本大同元年丙 戌 八月日、學法得問、五智灌頂兩部、大法諸尊、瑜伽大日金剛頂經等二百餘部、□ 、諸新譯 經論佛像道具等、皆以 隨身歸朝 云云、」

と書かれている。その他にも『元和郡縣圖志』『高野大師御廣傅』等にも同様に書かれている。


 

 既にその年三月十七日に桓武天皇は崩御され、五月十八日に平城天皇が即位し、十九日に賀美能親王が皇太弟とされていた。

 空海は十月二十二日帰京する高階遠成に託して、新請来の経・律・論および仏像・曼荼羅・道具・恵果和尚付嘱物等の目録「新請来經等目録」を進献した。この文書で空海はその一覧を書き上げるとともに、その前書きで遣唐使として留学を志し、青龍寺の灌頂阿闍梨法号恵果和尚にめぐりあい学んだこと、殊に未だ聞かなかった教え「密教」の名前を聞き、その得難き法を生きて請来したことを述べるのである。

 

 不空三蔵訳の経の一覧を書き並べた後に、空海は述べる。

 

 「今之所傅拔柢■源。何以故……」

 

(ところが、今、私が伝えた教えは、両部の根源を究めたものです。どうしてかと申しますと、……)で始まり、金剛薩埵から龍猛菩薩、龍智、金剛智・不空三蔵へと続く密教の流れを述べ、さらに

 

「密蔵之宗是日欝興。灌頂之法自茲接■。又夫顕教則談三大之遠刧密蔵則期十六之大生。……教之優劣法之濫■如金剛薩埵五秘密儀軌及大辯正三蔵表答等中廣説。』

 

(密教もこうしてしきりに興隆し、灌頂の法も、これよりあとからあとへと相次ぎ授けられました。一方顕教は、三劫という無限に長い間の成仏への修行を説き、密教は金剛界四仏の四親近である十六菩薩の特を実証する即身成仏をめざします。……教えの優劣と法の起源は『金剛薩埵五秘密儀軌』及び『大弁正三蔵表答』などの中に広く説いているとおりであります。)と書いている。


 

 次に不空三蔵以外の訳の経・旧訳の経・梵字真言讃等・論・疏・章等が続き、それぞれの末尾に注をつけている。たとえば

 

「不是梵字長短難別。存源之意其在茲■」

 

(この梵字によらなくては、音の長短の違いがわからないのです。原語を尊重する意味は、まさにここにあります。)など。


 

 曼荼羅及び阿闍梨の影については次のように書かれている。

 

「法本無言非言不顕真如絶色待色乃悟。……加以密蔵深玄翰墨難載更假圖畫開示不悟。種種威儀種種印契出自大悲一■成佛。……密蔵之要實繁■茲。傅法受法■此而誰■。海會根源斯乃當之也。

 

(真理はもとより言葉を離れたものですが、言葉がなくてはその真理をあらわすことができません。絶対真理(真如)は現象界の物を越えたものですが、現象界の物を通じてはじめて絶対真理を悟ることができます。……真言密教はとくに奥深く、文筆で表わし尽くすことはむずかしいのです。ですから図画をかりて悟らない者に開き示すのです。種々の威儀(たたずまい)やさまざまな印契(いんげい)も、皆み仏の大慈悲より出たもので、ひとめで見て成仏することができます。……密蔵の肝要は、かかって実にここにあります。伝法も受法も、これを捨てて誰がありうるといえましょうか、決してありえないのです。金胎両部海会(こんたいりょうぶかいえ)の根源は、まさにここにあるのです。)


 

 さらに恵果和尚付嘱の法具、恵果阿闍梨伝法の印信が続き、それについては空海はこう述べている。

 

「右八種物等本是金剛智阿闍梨従南天竺國持来轉付大廣智阿闍梨廣智三蔵又傅与青龍阿闍梨青龍和尚又轉賜空海斯乃傅法之印信万生之歸依者也。

 

(右の八種類の物などは、もと金剛智阿闍梨が南インドより持ち来たったもので、不空三蔵に伝え、不空三蔵がまた清龍寺の恵果阿闍梨に与え、恵果和尚がまた空海に賜わった者です。これこそ伝法の印信(いんじん)であり、生きとし生けるものの帰依すべきものであります。)


 

 そして遣唐使として唐に向かって出発した時から、青龍寺で恵果阿闍梨との最初の出会いについて書くのである。

 

 「和尚乍見大好大好。報命欲■無人付法。必須速辯香花入灌頂壇。即歸本院營辯供具六月上旬入學法灌頂壇。」

 

(和尚はたちまちご覧になるや笑みを含んで、喜んで申されました。「私は前からそなたがこの地に来られているのを知って、長いこと待っていました。今日会うことができて大変よろこばしいことです。本当によかった。私の寿命も尽きようとしているのに、法を授けて伝えさせる人がまだおりません。ただちに香花(こうげ)を支度して灌頂壇に入るようにしなさい」と。)

 

    そして空海は恵果からの受法の経緯と、その過程での恵果からの言葉を述べるのである。

 

 曰く「是日臨大悲胎蔵大■■羅依法抛花偶然着中台■盧遮那如来身上。  阿闍梨讃曰。不可思議不可思議。再三讃歎。」

 

(この日、大悲胎蔵大曼荼羅にのぞみ、法によって投花したところ、偶然にも中台八葉(ちゅうだいはちよう)の中の毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)の仏身の上に落ち着きました。恵果阿闍梨は賛嘆して、「不可思議なことだ、不可思議なことだ」といわれ、再三賛嘆されました。)

 

 曰く「和尚告曰。真言秘蔵経疏隠密付假圖畫不能相傅。」

 

(恵果和尚が申すのには、「真言秘蔵は経や疏には隠密(おんみつ)で、図画をかりなければ、あい伝えることはできません」と。

 

 曰く「……三蔵一目之後偏憐 如子。入内歸寺如影不離。■告之曰。汝有密教之器努力努力。兩部大法秘密印契因是學得■。(三蔵は私を一目見てから、ひたすらわが子のように可愛がってくれた。実家に行くときも寺に帰っても、影のように私に離れなかった。ひそかに私に次のように言った。『おまえは密教の器(うつわ)だ、努力しなさい、努力しなさい』と。両部の大法と秘密の印契(いんげい)は、こうして学び得た。……両部にわたり、兼ねつらぬいて得た者はいない。)

 

……欲報岳瀆昊天罔極。如今此土縁盡不能久住。 宜此兩部大曼荼羅一百餘部金剛乗法及三蔵轉付之物並供養具等請歸本郷流傅海内。■見汝来恐命不 足。今則授法有在。経像功畢。早歸郷國以奉國家流布天下増蒼生福。然則四海泰万人樂。是則報佛恩報師徳為國忠也於家孝也。……汝其行■傅之東國。努力努力。」

 

(師の恩の山よりも高く、海よりも深いのに報いたいが、夏の空のように高く極まりがない。今、この世の縁も尽きようとしていて、久しく留まることはできない。よろしくこの両部の大曼荼羅と、百余部の金剛乗の法と不空三蔵から転じて付嘱された物と、供養の法具などを本国に持ち帰って、教えを国中にひろめて欲しいのです。

ただわずかにそなたが来たのをみて、寿命の足らないことを恐れていました。しかし、今、ここに法を授けることができました。写経や造像の作業も終了したので、早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人びとの幸せを増すようにしなさい。そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう。これこそ仏の恩に報い、師の徳に報いることであり、国のためには忠、家には孝となるのです。……そなたはさあ帰ってこの教えを東国(日本)に伝えなさい。一所懸命つとめなさい」と。)

 

「……持念和尚宛然立前告白。我与汝久有契約誓弘密蔵我生東國必為弟子。」(この日の夜、道場において冥福を念じていると、恵果和尚がさながらに私の前に立って次のように告げました。「わたしとそなたとは久しい契りと約束があって、密教を弘めることを誓い合ったので、わたしは東国(日本)に生まれ変わって必ずそなたの弟子となろう」と。)


 

 さらにこの上に般若三蔵の付嘱が続く。

 

「右般若三蔵告白。……今欲乗桴東海無緣志願不遂我所■新華嚴六波羅密経及斯梵夾将去供養。伏願結緣彼國拔■元元。」

 

(右は、般若三蔵がわたしにこう申されました。……いま船に乗って日本に行きたいと思うが、縁がなくてこころざすところが果たせません。わたしが訳した新訳『華厳経』と『六波羅蜜経』、それにこの梵夾(ぼんきょう)を持ってゆき・供養してください。伏して願うところは、この経をもって日本に縁を結び、人びとを救って欲しいことであります。」と。)


 

 そして空海自身の言葉でこの目録は終わる。

 

「夫釋教浩汗無際無涯。一言弊之唯在二利。期常樂之果自利也。■苦空之因利他也。空願常樂不得也。徒計拔苦亦難也。必當福智兼修定慧並行 乃能■他苦取自 樂。修定多途有遅有速。翫一心利刀顯教也。揮三密金剛密蔵也。遊 心顯教三僧祇■焉。持身密蔵十六生甚促。頓中之頓密蔵當之也。……法之不思議豈過斯蔵■。慕覺之徒願聞未聞。頌曰

 

法無行蔵 随人去来。 似寶難得 得則心開。

投身半偈 豈論■財。 孜孜書寫 其来悠哉。

願此介福 國泰人蕃。 一聞一見 並悉脱煩。          」

 

(およそ釈尊の教えは途方もなく浩(ひろ)く、限りなくはてしないものです。一言でつくせば、ただ自利・利他の二つの利益にあります。永遠の生命と、そこに生きるよろこびを願い求めるのが自利です。そして人間苦と執著の迷いから救うのが利他です。むなしく自利を願っても、得ることができません。いたずらに利他をはかっても、また容易ではありません。必ず福徳と智徳とを兼ねて修行し、瞑想[定]と智慧とを並べて修行してこそ、はじめて他の人の苦を救い、わがさとりをうることができるものです。

 瞑想を修行するにも多くの道があり、遅いのも速いのもあります。三界唯一心(このすべての世界はただ一心の現われとということ)の理法を観ずるのが顕教であり、金剛不壊(ふえ)の三密の妙行(みょうぎょう)を修するのが密教であります。もし、顕教に遊ばせれば、三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)という長い年月の、彼方(かなた)はるかな時を要します。身を密教において修行すれば、きわめてすみやかにこの身このまま仏となります。速いうちでもまたとくに速いのがこの密教であります。

 ……真理の教えの不思議なことは、一体この密教にすぎるものがあるでしょうか。真実のさとりを慕い求める人びとよ、願わくはまだ誰も聞いたことのない、この密教の教えに耳を傾けていただきたいと思います。

 詩に、次のようにあります。

 

  真理の教えには行くも帰るもない

  人に随って真理の教えは去りまた来たる

  (それはあたかも)宝が得にくいのに似ている

  宝を得た時にさとりの心が開ける

  半偈(はんげ)の真理の教えを聞くために身をすら投げて施す

  どうしてこの珍しい財宝を論じないでいられよう

  ひたすらつとめて経論を書写してきた

  この土(ど)に請来した経緯も何と悠遠なことであったか

  願わくは大いなるこの福運を持って

  国土が安泰で、万民が豊かで幸せになるように

  一たびこの密教を聞き、一たび見る人は

  おしなべてことごとく煩悩から解脱するであろう)       

 

             大同元年十月廿二日入唐學法沙門空海




 

 このように『御請来目録』は、単に目録に終わらず、空海自身の言葉で、二十年の遣唐使としての期日を破り帰国したことの弁明に始まり、

師恵果との出会いの経緯、密教の系統からその本質、果ては密教と顕教との違いまでを書いている。

 

 「今、私が伝えた教えは、両部の根源を究(きわ)めたものです。」

 

「絶対真理[真如]は現象界の物を越えたものですが、現象界の物を通じてはじめて絶対真理を悟ることが出来ます。」と断言するのである。

 

しかも「金剛智阿闍梨から不空三蔵に、不空三蔵がまた青龍寺の恵果阿闍梨に与え、恵果和尚がまた空海に賜わったものです。これこそ伝法の印信(いんじん)であり、生きとし生けるものの帰依すべきものであります。]という言葉は、空海一人が正当なる密教の承継者であるという自負と自信に満ちている。


 

 遡れば久米寺の東塔で空海が初めて[大日経]を発見してから、この長い旅は始まっていた。それからの空海は全く迷いがない。

 密教を究めるために唐に渡り、恵果阿闍梨に会う前に醴泉寺で、般若三蔵と牟尼室利三蔵からサンスクリット語とインド哲学を学ぶ。そして恵果阿闍梨に会った経緯は彼自身がこの『御請来目録』に書いている。

 

 そして彼自身が「不貴 驚目之奇觀誠乃鎮國利人之寶也。」

 

(それは何も目を見はるような奇異な教えが貴(とうと)いというわけではありません。国を鎮(しず)め、人を幸せにするものこそ価値ある宝なのであります。)

 

とも書いているように、また恵果阿闍梨が最後に空海に望んだ言葉、

 

「早歸郷國以奉國家流布天下増蒼生福。然則四海泰万人樂。」             

(早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人びとの幸せを増すようにしなさい。そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう。)

 

その言葉を実現するために、ここから空海の長い旅が再び始まるのである。


 

 

 

 

註)原文の漢字はPCでは出ないものもあるので、その場合は■にしてある。

訳文はHomeにも記載しているが、すべて『弘法大師空海全集 第二巻」(筑摩書房刊)より引用させて頂いた。

 空海はすぐに京に帰ることは許されなかった。それはいくつかの理由があったと思われる。一つには元々遣唐使の定められた年期を破って帰国したこと、もう一つには当時の世情である。

 ただ単に3月17日の桓武天皇の崩御だけではない。

5月18日、平城天皇が即位し、19日、賀美能親王を皇太弟となすも、大同2年(807年)11月12日、伊予親王、藤原宗成の陰謀により、母吉子とともに、翌年川原寺に幽閉されて自害する。

 また大同4年(809年)4月13日、嵯峨天皇即位、翌14日、高岳親王を皇太子となしたものの、さらに弘仁元年(810年)9月10日、藤原葉子、仲成等が上皇の重祚を謀り、9月12日、上皇は剃髪入道し、葉子は自殺する。

​ このように世は乱れに乱れて、当時の政府としても、空海の進献した『御請来目録』も、じっくり読解する間もなかったに違いない。

 空海にとってはすぐに帰京できなかったことは幸いであった。この乱れた世に影響されることなく、そこから距離をおいたところで、自ら学んだ密教の教えを反芻咀嚼し、如何にこの国に合わせた教えとして打ち立てるかということを、あらためて考察する機会を得たと言うべきなのかもしれない。

​ 空海がこの『御請来目録』を進献してから、京へ帰るまでの三年間、どこで何をしたかということは定かではない。わずかに残された文献のなかから探ってゆくより外はないのである。

 ここから先は断片でしかないが、訪れたところの随想として、写真も含めて掲載してゆきたいと思う。今後一つにまとめて本として完成する希望を抱いているが、それまでの覚え書きとして。  

【太宰府】

 十年前に初めて大宰府を訪れた時、想像を遥かに超えた広大さに驚いた。それは平城京そのもののようにそこにあった。

 これまであまりにも都を追われ、流されるようにここへ来た、多くの人々のイメージが付きまとっていたのかもしれない。うらぶれた都落ちのイメージの場所として想像していた。菅原道真然り、柿本人麻呂然り。

 しかしこれまでの概念を書き換えるほど、そこは壮大な空間だった。 

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 大宰府は奈良・平安時代において、外交や軍事を主な職務とし、当時「西海道」と呼ばれた古代の九州を治めた役所であった。

​ 大宰府政庁は大宰府の中心となる建物であり、大宰府の長官である太宰帥(だざいのそつ)が政治や儀礼を行うための場所であった。平城京の配置を手本とした左右対称形となる瓦葺の礎石建物で、築地や回廊に囲まれた南北215.4m、東西約119.20mの規模ということが、発掘調査で明らかになっている。

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